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6日目【1月2日】 台中→集集線→田中→高雄
かつて被災地と呼ばれた街


震災を乗り越えた鉄路


▲台中駅も歴史あるレンガ造の駅舎


▲架線下を力走するディーゼルカー



▲客席は最前部まで。タブレットの収受も行われる

 台中で迎えた朝。今日は台中の南のローカル線・集集線沿線と、南部の主要都市・高雄を巡る予定である。

 年越しこそ盛大なカウントダウンで盛り上がったものの、元旦はただの休日といった空気だった台湾。元旦こそ祝日だったが1月2日はもう平日で、日本人としては正月気分が盛り上がらないのは、残念な気もする。正月ラッシュに巻き込まれることなく、平日旅行を楽しめるのは、ありがたくもあるのだが。

 台中駅に向かうと、さっそく朝のラッシュが始まっていた。台中は人口268万人の大都市ではあるのだが、ラッシュの勢いは福岡に及ばない。通勤輸送に占める鉄道の比重が、さほど高くないのだろう。

 さて、今日最初のお目当ての集集線にも1日乗車券があり、駅の窓口で接続駅の二水までの乗車券とともに求めると、乗車券だけを渡されて「あちらへ」と指を差される。「あちら」の方向の窓口に行って見ると、元の窓口の駅員さんが飛んできた。窓口ではなく、背後にある案内所を差していたようである。観光地の入場券スタイルの1日乗車券を、無事に入手。78NT(290円)である。

 集集線の一部列車は、西部幹線の架線下を台中まで乗り入れてくる。8:17発の車埕行きは、西部幹線で一部駅を通過する「区間快車」であり、日本流に言えば区間快速といったところだろう。車両はもうお馴染みの、ローカル線向け軽快気動車。ラッシュとは逆方向ではあるが、ほとんどの席は埋まった。

 高架に上がれば、高鉄台中駅の連絡駅である新烏日駅。御多分に漏れず、台中でも高鉄の駅は離れており、台鉄と高鉄の駅名が異なる。乗降客は、他の小駅よりは少し多いといった程度だ。

 架線下の複線を快走すること約1時間で、分岐駅の二水へ。左にカーブを切る単線の細道に乗り入れ、ローカル線の旅が始まった。幹線内での韋駄天走りは影をひそめ、平渓線、内湾線と同様、時速40km前後のゆっくりした速度で走って行く。沿線人口は内湾線より少なそうで、ローカル色は強まるが、平日にも関わらず観光客の姿が目立つ。

 車埕方面の列車は、運転席横の最前部まで座席があり、鉄っちゃん風の男性一人が座っていた。その横に立ち、吊り革に掴まって景色を眺めていたら、親子連れがやって来たのでベストポジションを譲った。日本でも海外でも、子どもには大人になっても鉄道を愛してほしいと思う故である。

 前方から眺める線路は重軌条、PC枕木で、一見すると幹線級である。しかし保線状態はベストとは言えず、素人目にも線路には狂いが見えた。狂いの部分に差し掛かると、車体がぐっと横揺れする。列車の速度も、保線のレベルに合わせて定められているのだろう。

 線路と生活の場が近いのは集集線も同様で、農村部では並行する農道との間に、柵がない。線路の敷石と側道の砂利が一体になっていて、どこからどこまでが線路敷なのかハッキリしないほどだ。線路を歩く人もおり、おじいさんが警笛を鳴らされていた。

 濁水を出発すると、車窓右手に傾いた鉄塔が見えてくる。台湾の河川敷にはRCの土台乗った鉄塔が多いのだが、鉄塔そのものではなく、土台が損壊したことによって鉄塔も傾いているのである。足元に目を転じれば、右手にグニャリと曲がった線路が並行する。

 これらは1999年に発生した、台湾大地震の「震災遺構」である。震源地は集集であり、沿線は壊滅的な被害を受けた地域で、集集線も2年半に渡って不通になったと聞く。のどかな沿線風景にその痕跡は追い難いが、震災遺構はストレートに視覚へ訴える。

 集集線ではなつかしいタブレット閉塞が現役で、交換駅では駅員さんとのタブレットの受け渡しが見られる。日本では停車中に受け渡す光景が見られていたものだが、こちらでは通過列車からの受取りよろしく、ホームの進入中に駅員さんがキャッチしていた。駅舎は列車の後部側にあり、要は先頭まで行くのが面倒ということらしい。

 台中から2時間弱で、終点・車埕に到着。青銅や内湾と同じく、ホームには高い熱帯の木が出迎え、南国ムードを感じる。構内はゆったりと広く、かつては入れ替え用の線路が入り組んでいたであろう場所は、芝に覆われていた。車埕駅は木造だが、新しい駅舎のようで、山小屋のような雰囲気がある。天気は快晴で、今日も暑くなりそうだ。



▲遺構として残されているゆがんだ鉄塔


▲アメのように曲がった線路も残されている


▲南国ムードが増す沿線風景


車埕でコーヒータイム


▲再整備された広い構内が気持ちいい車埕駅


▲ダム湖まわりの木々は紅葉していた



▲ゆるやかな時が流れる車埕小飯店


▲木材の出荷で賑わった名残り

 車埕駅前の集落は、ごくごく狭い範囲にまとまっており、家々は路地が結ぶ。平日ながら団体の観光客の姿が目立ち、お土産屋さんには人々が群がっていた。ガヤガヤしているのは嫌なので、後で戻ってくることにして先へ進む。

 高台に上がると、鉄道書家工作室、歓迎参観という看板が。鉄道画家のアトリエ、観覧歓迎という意味なのだろうと勝手に解釈して、入ってみた。庭には、鉄道をモチーフにした木工製品や絵が飾られ、どこか懐かしさを感じる作風である。画家・李明建氏にもぜひお会いしてみたかったのだが、ご不在のようで残念だった。

 狭い集落のどん詰まりは、ダムの壁がそびえていた。コンクリートではなく、石が積み重なる構造で、いわゆるロックフィルダムというものだろう。ダムの下は池の周囲を木道の散策路が巡っており、青空に色付いた木々が映えていた。

 駅前の路地に戻り、団体さんで賑わっていた車埕小飯店に行ってみると、さきほどの賑わいが嘘のように静かになっていた。名物駅弁でもある、木桶弁当の本家のお店である。おやじさんは日本語を解し、スタンダードな排骨飯を頼んだ。本当は木桶入りのものが欲しかったのだが、まだまだ長い旅、荷物になりそうで断念した。

 おやじさんは穏やかながらも商売熱心。木桶は荷物になるからとお断りすると、こちらの意を解し、小さな瓶の檜油を勧めた。少し付けただけで檜のいい香りが広がり、これはお土産にびったり。お風呂にたらして、檜風呂気分なんて楽しみ方もありそうである。家族に渡したところ、好評だった。

 店の看板猫と、近所の方とウーロン茶を片手に談笑する店のおやじさんを見つつ、ゆっくりした時間を過ごしていたら、木桶に入っていない木桶弁当が出てきた。できたて、揚げたてで、肉がカリカリ。素朴な味わいだった。

 木造駅舎、木工細工、木桶、檜油と、木に関する名物が続いたのは、車埕が林業の街ゆえである。木工資料館は大断面の木造ドームで、「木構之美」と題した解説文が見られた。木材の切り出しのために活躍した貨車も、駅の入れ替え線の跡に保存されていて、阿蘇・小国の宮原線跡を思い出す。

 いい景色にいい天気、食後とあっては、空の下でコーヒーを飲みながらゆっくりしたいもの。そんな時間を過ごすのにぴったりなカフェも数軒あったのだが、そこまでの時間もなかったので、テイクアウト専門のスタンドでアメリカンを頼んだ。

 どうせポットから注がれるか、よくてもコーヒーマシンから供されるのかと思っていたら、注文を受けてから豆を挽く本格派。フィルターを蒸らし、カップを温めるという手順の一つ一つまで丁寧である。おばさん二人と感心しあっていたのだが、僕が日本人と分かると「こんにちは」と笑顔で挨拶してくれた。最小限の日本語は、一種「常識」のようである。

 数分かかって淹れられた一杯だてのコーヒーが、まずかろうはずがなかった。

 1時間半の散策を終え、上り列車で引き返す。2両編成の車内は空いており、ローカル線らしくなってきた。20分弱の集集で下車する。

 集集の駅舎は、日本のローカル線でもよく見られた、ありふれているようで最近では見なくなってきた木造の建物だ。ラッチやベンチも木で作られている。懐かしさを感じるが、実は1999年の大地震で全壊した後、原図を元に再建された新しい駅舎である。ぱっと見ただけでは再建したものとは思えない、時代を経た味わいがよく再現されていた。

 集集の街は自転車で巡るのがお決まりのようで、駅前には無数のレンタルサイクル屋さんが並んでいた。本来は身分証を預けて借りるようだが、外国人の対応にも慣れているようで、パスポートを見せるだけでOKだった。150NTです、5時までに返して下さいねと言われるが、僕は1時間後の列車で発たなきゃいけないんだと伝えると、100NTにディスカウントしてくれた。それでも370円だから、日本並みかそれ以上の値段ではある。

 自転車とはいえ、異国で乗り物を操るのだから、ちょっと緊張しつつ慎重にペダルをこぎ始めた。地図を貸してくれたものの分かりにくく、道路標識を頼りに自転車を漕ぐこと10分弱、寺院の武昌宮にたどり着いた。オレンジ色の屋根瓦と装飾が派手やかで、日本の寺とはずいぶん趣を異にする。駐車場には高さ4mくらいの黄色小鴨が鎮座。台湾全土で流行していることが分かる。

 武昌宮の裏手に回ると、1階部分が押しつぶされた同じスタイルの建物がある。大地震で倒壊した、旧武昌宮だ。柱は鉄筋が露わになり、日本の地震被害でも見られる、いわゆる「せん断破壊」である。現行の震度基準に照らせば、震度7に達するのではないかと言われる、激しい揺れを伝える。立ち入りを制限するような柵はなく、間近まで迫ることができるが、身の安全は自己責任である。

 東日本大震災の被災地では、震災遺構の保存を巡り賛否が分かれているが、多くは解体・撤去の道をたどっている。後世へ震災を伝えて行くために必要と判断するか、毎日震災の痕跡を見せられては前に進めないという声を大切にするのか。集集の鉄塔、線路、武昌宮を残すにあたって、現地でどんな議論が交わされたのか、知りたいところである。

 帽子をかぶってこなかったのは、迂闊だった。熱い日差しが容赦なく照りつけ、時々日陰で休みながらペダルを漕ぐ。ヒマワリが並び、夏の終わり頃を感じるほどだ。

 案内看板に「十三目仔窯」と出ており、窯元かなにかかなと思いながらペダルを進めた。レンガ造で13個の出入口が続く長い構造物は、レンガやタイルを焼くため近代に作られた窯とのこと。今は売店などに活用されているようだったが、残念ながらこの日はすべての店が扉を閉ざしていた。集集線の真横にあり、線路に面した広場は駅を模している。本物の列車が通過する瞬間を、見てみたかった。

 集集駅前から車埕方面へは、集集線と並行して線路がひかれており、蒸気機関車が牽引するトロッコ列車が走っていた。もちろん本物の蒸気機関車ではなく、エンジンはSUZUKI製というのが面白い。

 線路を跨いだ反対側には、懐かしいテイストのミニ遊園地があるが、その正門へ至る踏切はない。台鉄が設けた「通行禁止」の看板の下には、おそらく遊園地が設けたのであろう「線路の上に留まらないで」「置き石しないで」「列車に近付かないで」の注意書きがあった。渡っていいのかだめなのか、なんとも迷う指示ではあるが、要はここも自己責任で渡れということらしい。


▲一見復元駅舎には見えない集集駅


▲震度7の揺れの恐ろしさを伝える武昌宮


▲整備された自転車道をチャリンコで巡る


▲十三目仔窯


「時刻表鉄」の敗北


▲時刻表を読み解けずに乗れなかった自強とすれ違う


▲多くの近代商店建築が残る田中の街中



▲露店で小龍包を買い込む

 13時15分発の列車で、集集を離れた。高雄へは西部幹線を南下せねばならないが、接続駅の二水には特急があまり止まらないので、1駅北上し、田中で1時間後の自強号に乗ることにしている。二水ではしばらく停車し、その間に隣のホームに区間車が止まり、南下していった。むむ、もしかして失敗したかな、と思う。

 後で時刻表を見直してみたら、やはり。区間車で斗六まで南下すれば自強号に接続し、僕の予定より1時間早い自強号に乗れたようだ。台鉄がネット上で配布しているエクセルの時刻表は、優等列車と普通列車がまったくの別ファイルになっているため、このような接続が取られていることに気付いていなかった。日本の時刻表のように特急と普通が並んで記載されていれば、斗六行きの区間車を発見していたことだろう。

 いや、気付いてもプランニングまでには至らなかったかもしれない。というのも乗ってきた集集線の列車は、二水駅の時刻が13:53となっており、一見13:51の西部幹線斗六行きには乗れないように見えるからだ。しかし時刻表に書かれているのは、発車時刻。手前の源泉駅発車時刻は13:40で、前後の列車が源泉~二水を7分で走っているのを見比べれば、13:47に二水へ着くことは推測できるのである。

 これは時刻表の「裏読み」と呼ばれるテクニックであり、日本の時刻表でプランニングする際も、しばしば使われる。しかし台湾でも、こんな高度な推測をせねばならないとは、思ってもみなかった。複雑な列車ダイヤを紐解いていくのは鉄っちゃんの楽しみでもあり、逆に読み解けないと負けたような気分になる。田中まで駆けて行くディーゼルカーの軽快さとは裏腹に、僕の気持ちはちょっと腐った。ちなみに同人誌という形で、日本式の書式に直した台湾時刻表が売られており、これを活用するのも一考である。

 田中着。橋上駅舎に上り、乗り越し精算のため1日乗車券を出したら、女性駅員さんに怪訝な顔をされた。よくよく見れば、財布に入れていた平渓線の1日乗車券で、平謝りして集集線の乗車券を差し出した。駅員さんは笑顔に変わり、Are you Japanese?の質問にイエスと答えれば、ありがとうと日本語が返ってきた。台鉄にはフレンドリーな駅員さんが多く、親しみが増していく。

 乗り換えのためだけに降りた田中だったが、せっかく1時間もあるので、駅前に出てみた。橋上化前の旧駅舎には自治体の広報センターが入っており、米がモチーフの「ゆるキャラ」が踊る。米どころなのだろう。

 駅の周辺には、味のある古い商店建築が多く残る。日本流に言えば「看板建築」…通りの表面のみを洋館風に飾った建築物のようだが、通りに面した1階部分はオープンになっている台湾式の看板建築だ。あまり強い構造には見えないが、大地震でも多くが耐え抜いたようである。

 小腹が減ったので、路上の小龍包のワゴンでおやつを買い出し。1つ35NT、1袋100NTと書かれていたのだが、どんと9個渡されて35NT(130NT)だった。100NT出していたら、一体どれだけ出てきたのだろうか。とても一人じゃ食べられないと思っていたが、列車の中でペロリと平らげてしまったのだから、美味しかったことには間違いない。

 思いのほか収穫の多かった1時間の田中散策で、腐った気持ちも癒え、予定通り14:55発の自強号で高雄へと下った。特急に相当する自強号だが、高鉄が開業した今は停車駅を増やし、地域間の足として活躍する。乗車率はざっと7割で、平日昼下がりの「並行在来線」としてはよく乗っている。

 流線型の列車は電車のように見えるが、前後が機関車になっている、客車列車のE1000型である。前で引き、後ろで押すことからプッシュプル=PPトレインと呼ばれる韓国製の車両だ。最優等列車だけにリクライニングシートが並ぶが、莒光号の方がゆったりしていたように思う。最後尾の車両は一部の窓が高くなっており、ビュッフェか食堂車かと思い行ってみたら、荷物室になっていた。

 自分で組んだとはいえ、ハードな行程に齢32の体は堪えているようで、席に座ればうつらうつら。有名な阿里山登山鉄道が分岐する嘉義も、夢の中だった。主要都市の台南も、今回は通過である。

 約2時間で、高雄に近付いてきた。高鉄のターミナルはやや北にある左営駅で、接続する台鉄の駅は新左営駅。ちなみに台鉄にも別に左営駅があり、さすがにこれは世を惑わすだろう。高鉄から乗り換えてきて市内にアクセスするのか、我が自強号にも日本人の女性グループが乗ってきた。

 2時間の旅を終え、高雄駅着。高雄駅周辺の線路は地下化の工事中で、駅は工事現場の中にあった。


▲PP動車の自強号


▲捷運が並行


▲高鉄と接続をとりラストスパート


夜の高雄散歩


▲工事中も公開されている旧高雄駅舎


▲地下化事業の広報館として活用中


▲ヨーロッパの香りただよう領事館



▲高雄の夜景を見ながらのティータイム

 高雄は台湾第2の都市で、人口は278万人を数える。駅舎の横には仮設の高架道路がまたがり少々うっとおしいが、地下化に向けた生みの苦しみだ。日本時代から続く旧駅舎は高架道路の位置にあったようだが、「曳家」で移設され、台鉄地下化事業の広報施設になっていた。街を分断する線路の地下化は高雄の悲願だったようで、広報にも力が入っていた。

 驚いたのは完成後の旧駅舎の処遇で、地下化の完成後には再度「曳家」して、建築当時の位置に戻す計画なのだとか。台湾で古い建物が大切にされているのは、単にもったいないという考え方ではなく、建物がそこに建った歴史そのものまでも大切にしている証である。

 今日の泊りは、高雄駅から徒歩5分の宿泊施設「Single inn」。宿泊サイト経由で日本からも予約ができて、宿泊料は900NT(3,300円)。今回泊まった宿泊施設では一番の高値だが、ちょうど疲れも出てきたタイミングだし、ちょうどいいだろう。いわゆるキャビンタイプのカプセルホテルで、部屋に窓はなく、壁も天井まで通じていない。代わりに大型テレビを始め、設備は最新式で、羽毛布団はふんわりしていた。

 高雄の滞在もこの夜だけなので、一休みもそこそこに、夕方6時、街歩きに出発した。高雄にも2008年に開業したばかりの捷運があり、現在は十字に交わる2路線が運行中。改札機にはICカードの読み取り機があるが、悠遊カードは使えない。台鉄やバスでは使えるのに、何て分かりにくい!と思うが、日本の地方都市でも見られる現象ではある。将来的には、全国共通化する計画だとか。

 電車は台北と同様、幅広のヨーロッパ製の電車だが、3両とかなり短い。台北と同様清潔感があり、改札内の飲食禁止も同じだが、飲み物を飲んで注意されている人を見かけた。発車メロディが流れるのは日本テイストで、台北とは雰囲気が違った。

 2線が交わる美麗島駅で、紅線から橘線に乗り換える。乗り換え通路は暗く、本来は広告が入っているべきであろう柱の電飾も、空白のまま。橘線の電車も3両という短い編成で、夕方のラッシュ時にも関わらずガラガラだった。台湾第2の都市とはいえ、地方での地下鉄運営は厳しいのかなと思う。

 終点・西子湾駅から地上に上がると、鉄道博物館があった。旧高雄港駅舎とのことだが、18時が閉館時間だったようで残念だ。

 駅から周辺の見どころまでは距離があるが、コミュニティバスのようなマイクロバスが接続していた。カードの読み取り機があったのでかざそうとしたところ、運賃はなんと無料とのこと。捷運の利用促進策の一つなのだろう。海岸に出ると、遊歩道がライトアップされ、港を眺めながら散策できるコースになっていた。

 バスを降り、丘の上の旧英国領事館へ登った。入場料は100NT(370円)。赤レンガの英国式建築物で、ライトアップされた姿は港町の雰囲気ともよくマッチする。大切にされている近代建築物は、何も日本の手によるものだけではない。

 ゆっくりと時を過ごしたくなり、オープンカフェでラテを頼んだ。100NTだったが、入場券に付いている割引券で70NT(260円)に。ただカフェは入場ゲートの中にあり、カフェに来る人はすべからく、全員が割引対象だ。同じような考え方の割引券は十分瀑布でも見られ、二重価格表示のようなものではと、どこか釈然としない。

 細かいことを気にしなければ、涼しくなってきた風に吹かれ、虫の声を聴きながら傾けるラテは千金の味である。正月であることを忘れ、港町の夜景と対座した。

 坂を下りると丁度バスの時間だったので、同じ運転士のマイクロバスに乗って西子湾駅へ。美麗島駅から今度は南に下り、三多商圏駅で下車した。新市街地を形成する界隈のシンボルが、高雄で一番高い高層ビル・高雄85ビルである。台北101の完成までは、台湾で最も高いビルだった。台北と高雄の間に、東京に対する大阪、あるいはソウルに対する釜山のような対抗心があるかは知らないが、高雄にとっては地団駄を踏む出来事だったのではないかと察する。

 150NT(560円)の入場券を買って、エレベーターに乗り込む。上がり始めると照明が落ち、プラネタリウムのように天井が輝いた。300mの高さをわずか1分で上がる高速エレベーターは、三菱製だった。

 展望台からのぞけば、はるか眼下に光の道が続いていた。西側はさきほど歩いたベイサイドのエリア。北側から東側にかけてが繁華街や住宅街なのだが、日本の夜景に比べると、街区内の明かりが少ないように感じた。夏の暑い気候に備え、建物の窓が小さい故だろうか。道路の車の光の列が、相対的に際立って見えた。南側はライトアップされた観覧車や、グラデーションに色が変化するビルが、躍動感のある夜景を作っていた。

 捷運に乗り、すでに乗り換えで2回通った美麗島駅の改札を出た。コンコースを出ると、ステンドグラス風のドーム天井が広がり、なんとピアノの生演奏が行われている。台北はもちろん、日本や韓国でもここまで豪華絢爛な地下鉄の駅は見たことがなく、豊かな市民生活を演出していた。地上の出入口も、交差点の四方をガラス張りのドームが彩る。

 駅の上にあるのは、高雄の観光名所の一つである、六合観光夜市だ。地方都市とはいえ、あちこちから日本語や韓国語が聞こえ、外国人観光客も大挙押し寄せていることが分かる。中国語を話す人がもちろん多いのだが、これも多くは大陸の人らしく、要はほとんど外国人観光客が占めている。

 とはいえ、通りが広く歩きやすい夜市で、名物の海産物が豊富なのも嬉しい。屋外に生ものを並べて大丈夫かなと思ったが、置かれた台はかなり冷やされているようで、水滴がしたたり落ちていた。海鮮粥は観光地価格(70NT=260円)だったのかもしれないが、ダシがよく効いていて、おいしかった。

 今度は北上する捷運に乗り、高雄駅を超えて巨蛋へ。街から郊外へ帰る人でぎっしりの電車を降り、歩いて5分の瑞豊夜市へ向かった。六合は観光客向けなので、ぜひ地元向けにもと友人に推されていたのだ。看板には毎週二・四・五・六・日(五天)…つまり火・木・金・土・日開催と出ており、今日は木曜日。一日ずれていたら、情けなく引き返さなければならないところだった。

 明日も学校や会社があるはずなのに、9時前の夜市は若者を中心に人でぎっしり。食べ物や衣類、雑貨まで何でもござれの品揃えである。パチンコや射的、店主と対戦するカードゲームといったアトラクションまであり、言葉さえ分かればエキサイトできそうだ。確かに、観光客らしい観光客はほとんど見かけない。ステーキをつまんだり、フレッシュジュースを飲んだりしつつ、楽しげな高雄市民の夜に紛れ込んだ。

 だいぶ歩き疲れたので、10時半には宿に戻った。宿はもともとサウナだったようで、大浴場が充実しているのは嬉しいところ。人工温泉に浸かったり、韓国サウナと同じ大きな水風呂で泳いだりして、のんびりさせてもらった。

 惜しいなと感じたのは、シングルインに改装した時に塗装したと思われる黒い天井が、剥げてカビのように見えてしまうこと。黒はシングルインのテーマカラーのようだけど、湿度に強い塗料を使っていなかったのだろう。居心地がいい宿だけに、ささいな点で評価を下げてはもったいない。

 やわらかな布団にくるまり、ぐっすりと眠った。


▲高雄の夜景。窓が曇っているのが残念


▲壮大な地下空間、美麗島駅


▲観光客ではあるがいい雰囲気の六合夜市


▲瑞豊夜市じゃ地元向け


▼7日目に続く
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