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7日目【1月3日】 高雄→竹田→台東→瑞穂
旧客旅情


日本を想い続ける人々


▲客車列車の区間車は、のんびり、ゆったり


▲ドアは解放状態で走る



▲単線高架の竹田駅。駅前にはビンロウ畑が広がる。

 いい布団で眠ったのですっきりと目覚め、サービスのブレックファーストもしっかりと頂いて、7日目が始まった。今日は主に鈍行列車の旅。屏東線から南廻線を回り込み、東部幹線を瑞穂まで北上する、台湾南岸半周コースである。トップランナーの高雄8時34分発の区間車で、今日の旅がスタートした。

 これまで乗ってきた区間車は、電車もディーゼルも、ロングシートの味気ない車両ばかりだったが、非電化の幹線では客車列車が中心になる。民国69年(1980年)製の莒光号のお下がりで、枕カバーや座面こそビニル製になっているが、ゆったりしたリクライニングシートは健在である。編成も7両と長く、大混雑だった台中周辺の電車4両編成とは大違い。がら空きの車内で、のんびりくつろげる。

 ガクンという客車列車特有のショックを合図に、高雄駅を離れた。工事中で雑然とした構内を、ゆっくりと走って行く。後庄駅では、新型通勤電車・800形と交換。日本製で、JR四国8000系ばりの流線型の前面スタイルが話題になっていて、一度は乗ってみたい車両である。ただ今は、ロングシートの通勤電車よりも、客車列車の方がずっと魅力的だ。

 もともと混んでいなかった車内だが、電化区間の南端・屏東ではその少ない乗客もどさっと降りてしまい、いっそうガラ空きに。台湾最南端を前に車窓は南国色を強め、日差しも強烈になってきた。駅舎は屋根だけといった駅もあり、風を防ぐよりも、吹きさらしの解放感が重視される気候ということである。同じ台湾とはいえ、九州並みに寒い台北とは違えば違うものだ。

 列車は、単線の高架橋へ駆け上がった。周囲はビンロウ畑で、交差する道路も時々しか現れないし、通行量もさほどではない。台中や台南の市街地すら堂々とした踏切で横切り、幹線の交通を遮断してはばからない台鉄なのに、なぜこちらの高架化を急いだのか、理解に苦しむ。一外国人には分からない、いろいろな事情だあるのだろう。

 高雄から一時間、高架区間上の竹田駅で下車した。片面ホームの簡素な駅には、監視員のおじさんが立っていて、エレベーターの利用をすすめてくた。駅のエレベーターにはもれなく障がい者用の文字があり、健常者は使ってはいけないものという認識だったのだが、このあたりの事情にも本音と建前があるようだ。高架下の駅舎は小さく、ベンチは置いてあるが、待合室と呼べるものはなかった。

 高架橋をくぐり、ぐるりと迂回すると「竹田駅園」へ出る。線路も駅舎もすっかり新しくなった竹田駅だが、旧駅舎も大切に保存・展示されており、駅園はそれを中心にした記念公園である。ウチの田舎の駅も、昔はこうだったなと思い出した、どこか懐かしい駅舎だ。

 駅園にはカフェや資料館など色んな施設が並んでおり、その一つに「池上一郎博士文庫」がある。1943年、軍医としてこの地に赴任した池上一郎氏が、晩年に寄贈した図書を収めた「アジア最南端の日本語図書館」である。

 僕が日本人と分かると、劉理事長と張理事が熱く歓待してくれた。お二人とも日本時代の生まれで、お互いの会話は台湾言葉が時々混じる日本語。日本語で教育を受けた世代なので、日本語で表現するのが一番しっくりくると笑っていた。国会議員や著名人をはじめ、この地を訪れる日本人も少なくないようで、日の丸への寄せ書きをすすめられた。

 アイスをご馳走になりながら、劉理事長に駅園を案内して頂いた。「安部さんになってよかった」「みのもんたはダメだ」「アメリカも立場上、仕方なく『失望』するしかなかったのでしょう」…台湾の南で、自分の祖父の世代の方からこのようなお話を聞いていると、なんだか不思議な気分にもなってくる。

 さきほどさらりと見た旧駅舎も、中まで案内してもらえた。倉庫代わりになってしまっている駅員室には、畳が敷かれ日本時代の面影が残っていた。外には別棟で、宿直の時に使っていたという風呂場も残されている。井戸からくみ上げた水を、直接湯船に注げる樋が面白かった。

 撮影記念館では、戦後台湾の生活の何気ないワンシーンのいくつもが展示されていた。子ども達が家庭の生活を支える光景は、戦後日本と変わらない。劉理事長からは昔の生活の様子を聞き、張理事とはカメラ談義に花が咲いた。

 時間があればお昼ごはんでもとお誘い頂いたのだが、どうしても乗りたい列車の時間が迫っている。先を急ぐ失礼を詫びつつ、今度は友人を連れて再訪すると約束した。張理事には車で駅まで送って頂き、恐縮しきりである。今も台湾に日本を大切に思い続けている人々がいるということは、忘れたくない事実だ。そんな方々と実際に会える竹田は、高雄からのワンデイトリップにも手軽で、おすすめしたい。



▲実家近くの駅もこんな駅舎だった。旧竹田駅


▲池上一郎博士文庫。


▲寄せ書きをすすめられた


タイムスリップ・トラベル


▲区間車同士の交換風景は、のんびり風情もひとしお


▲最南端の鈍行列車は、子ども達とともに



▲博物館級の貴重品の旧客鈍行


▲窓を開け放っての旅路

 1時間余りの忘れられない体験を胸に、後続の区間車に乗り込んだ。南州駅では数分間停車。北上する区間車と自強号の、2本の交換待ちだった。車窓には、何の養殖を行っているのだろう、水車の回る池が目立つ。日本の田舎では、ありふれた光景になってきたメガソーラー発電所も見かけたが、台湾の9日間で見かけたのは、ここが唯一だった。

 枋寮では、7分接続で乗り換えである。切符は乗り切り制なので買い直さねばならず、大急ぎで駅舎に向かった。売店もあったのはありがたく、例によって台鉄弁当を買うと、ビールも勧められた。台湾に来て、車内で飲酒する光景を見たことがなかったので遠慮していたのだが、勧められたのなら買わないわけにはいくまい。

 台湾最南端を回る列車は、枋寮から台東まで2時間をかけて走る普快車・3671列車である。遠足にでも出かけた帰りなのだろうか、大勢の幼稚園児たちと共に青い客車に乗り込んだ。

 普快車はもともと普通車と呼ばれた列車種別で、各駅停車を示すものだ。しかし冷房付きの通勤電車や優等車両のお下がりが各駅停車に導入されると、各駅停車のまま準急格の復興号(のちに自由席列車は区間車へ)に格上げされていった。復興号運賃は、スピード料金ではなくサービス料金という考え方だったのだろう。ビドゥルギ→統一→ムグンファへと、事実上急行格の列車に格上げされて行った、韓国の各駅停車と同じである。

 現在も普快車として残る普通列車は、今や南廻線と台東線に残るのみ。そんな中でもこの3671/3672列車は、かつて台湾のどこでも見られた青い客車列車の、最後の生き残りである。車内は高い天井、古びた転換クロスシート、デッキには丸い手ブレーキ。日本では、動態保存車を除けば博物館でしか見られなくなってしまった、懐かしの旧型客車だ。

 3両編成の列車のうち、最後尾は幼稚園児たち、2両目にはその他の乗客たちが集まっており、最前部の車両は無人状態。ホームをあまり歩きたがらない台湾人気質ゆえなのか、それとも機関車の騒音を避けたいのだろうか。車内の撮影をしていると、20代前半とお見受けする若い女性が乗ってきた。

 エンジン音も高らかに、普快車は枋寮を離れた。暑い南台湾の1月、扇風機のスイッチを入れ、窓を全開にしてのオープン・エア・クルージングの始まりである。台湾、それも南部の真夏では辛そうだが、今は窓を開け放すにはちょうどいい気候。ディーゼルの煤煙の匂いをかぎつつの、懐かしの汽車旅が今ここにある。

 幼稚園児を除けば、乗客はほとんど、この列車目当てといった風情の方々ばかり。ただ1本の客車列車が残されている理由には、もともと乗客の少ない南廻線における「観光列車」的な役割も期待されているのかもしれない。

 1駅目の加祿駅では、列車交換のため長時間停車するようで、ホームに降りた件の若い女性から声を掛けられた。列車の写真を熱心に撮っており、「あなたも降りてらっしゃいよ!」と誘ってくれたのだろうと思う。つられて他の鉄っちゃん達も、何人か降りてきた。どことなくキハ20系を思い出す風貌の自強号が、轟音を立てて通過して行った。

 後から知ったのだが加祿駅は、台湾でも貴重な硬券(厚紙の折れ曲がらない切符)の取り扱い駅でもあったそうだ。1日に停車する列車は、上下わずか2本ずつなので、長い時間止まる3671列車で訪ねるのがベストとの由。もったいないことをした。

 枋寮で買った駅弁を開く。窓の開く旧型客車で、ビールを傾けながらの駅弁。最高の調味料は、南国の海の車窓である。日本がもう何十年も前に失ってしまった汽車旅が、ここに再現された。最高な気分で、はるばる台湾南部にまで乗りに来て、本当によかったと思う。レトロな列車とは対照的に、南廻線自体は1992年に開業した新しい路線で、ゆえにトンネルが多く、海はその合間から垣間見ることになる。

 2駅下った枋山駅が、台湾最南端の駅。台湾の大地はまだ南に続くが、列車は山越えにかかり、西海岸から東海岸へと抜けて行く。人の気配がしない地域で、しばらく駅はないが、列車交換のために必要な信号所が設けられている。北海道とは言わずとも、田沢湖線の山中の信号所を思い出す風景だ。ただ自動制御で無人の日本の信号所とは違って、台湾には線路を守る人々の姿が見える。

 トンネル内では煤煙を避けるため窓を閉めていたのだが、僕の席は立てつけが悪いのか、閉まった窓が開かなくなってしまった。ガタガタやっていると、件の女性が手伝いに来てくれた。故障みたいですねと、お互い苦笑い。せっかくの会話のチャンスである、一昨日の記憶がよみがえり「日本の鉄っちゃんです」と自己紹介してみたところ、はばかばしい反応はなかった。熱心に列車の写真を撮っていたので同好の士かと思っていたが、単なる写真好きだったようだ。台湾での淡き恋、あえなく撃沈である。

 8kmも続くトンネルを抜ければ、東海岸へ抜けた。海の青さが、一層増したようだ。相変わらず人煙まれな地域で、開業したものの廃止になってしまった駅の跡も見られた。その分、手つかずの自然が残されている。

 最後尾の客車の園児たちは、どこかの駅で降りたようで、無人になっていた。優等列車スタイルの前2両とは異なり、こちらは乗降扉が両開きでデッキなしの通勤タイプの客車である。幹線筋を走っていた頃は、都市圏の通勤輸送に大活躍したのだろう。

 車掌さんから何かご用ですかと声を掛けられ、例によって「日本の鉄っちゃんです」と筆談すると、写真を撮れるように最後尾の貫通ドアを開け放してくれた。英会話が堪能でフレンドリーな車掌さんで、スマホで撮った日本製通勤電車の800系の写真を見せてくれたり、会話が続かないと見るや台東の日本語ができるお友達に電話してくれたりと、あれこれ相手になってくれた。

 金崙駅では目の不自由な女性が乗ってきて、車掌さんは対応に当たることに。職務優先、当たり前のことである。続く太麻里駅のホームには、旧型客車が止まっていた。復興号塗装の車両もあり、興味深い。ホーム1本をつぶして停車していたので現役の車両に見えたが、割れている窓もあり、ほぼ廃車状態のようである。

 次の知本は台湾でも有名な温泉地で、今日の宿泊先候補でもあったのだが、リゾート地に男一人で行っても寂しいだけなので、今回はパスした。温泉街は離れており、タクシーや送迎でのアクセスになるようだ。今度誰かとくる時には、ぜひ訪ねてみたい。

 2時間の時代離れした汽車旅は、台東到着でフィナーレ。余韻に浸る間もなく機関車は切り離され、回送されていった。17時25分の折り返し3672列車まで、お休みになるのだろう。充実した旅のプライスは、わずか104NT(390円)だった。



▲旧型客車で駅弁、日本が失った贅沢


▲太平洋岸へ。海の青さが違う


▲人口が希薄な地域だけに、時々廃駅も姿を見せる


▲台東到着、機関車が引き上げて行く


終焉間近の韋駄天ディーゼル


▲比較的あたらしい自強号ディーゼルカー


▲菜の花が春の気配を伝える



▲池上の弁当博物館


▲かば焼き弁当をディーゼルカーで食べる

 台東は、立派な駅舎だった。台東も人口約11万人と、東海岸でも大きい方の街なのだが、花蓮と同様に線路の付け替えで駅は街外れに移転しており、駅前には何もない。1982年の移転から30年以上も経つのに市街地は形成されておらず、新幹線の単独駅のようである。

 台東からは14:45分の自強号で、東部幹線を北上する。90年代デビューのDR3100形気動車で、日本車両製。日本製の気動車ではあるが座席の背面テーブルはなく、逆に窓枠には日本には見られないカップフォルダーがある。お茶の紙コップを載せるためのものである。振り子列車でもないのに座席に取っ手が付いているのは、立席乗車への配慮だろう。客室間仕切りドア上の自動・手動切り替えボタンだけは、日本の列車そのものだった。

 ディーゼルカーだが走りは軽快で、整備された線路を軽快に飛ばしていく。エンジンの真上の席なのか、ビリビリした振動だけは気になった。短区間の乗車なので構わなかったが、台北まで5時間もの乗車となれば、我慢できなかったことと思う。台東線沿線は、南廻線よりはるかに人家が張り付いており、田園風景が続く。畑には菜の花が満開で、指宿枕崎線にでも乗っている気分がしてきた。

 40分少々で、池上駅着。ホームには、日本では滅多に見なくなった駅弁の立ち売りが出ていた。日本の駅弁売りはおじさんが多いが、当地ではおばさんが頑張っている。池上=駅弁というイメージは強いようで、短い停車時間の間に買い求める人の姿も見られた。

 僕は下車して、駅前通りを下る。「池上弁当」は一種のブランドで、同じ文字を掲げた店は何店舗もあった。中でも「本家」とされる店は、なぜか駅から一番遠いのだが、店舗の前には青いディーゼルカーが鎮座しており、駅のような雰囲気を醸し出している。

 中に入れば、そこは駅弁博物館。歴代の駅弁のレプリカはもちろん、米の生産の歴史や、昔の学校を再現したコーナーもあって、日本人にも懐かしく、楽しめる。池上は、日本で言えば南魚沼にも例えられる米の名産地で、池上米はブランド米として有名。有機栽培米も売っていたが、お土産にするにはちょっと重い。

 ともあれ、せっかく本場に来たのだから、駅弁を食べないわけにはいくまい。台湾の駅の駅弁は、あまり種類がないのだが、直販コーナーでは弁当チェーンのごとく、各種弁当が取り揃えられていた。台湾の駅弁といえば排骨飯だが、昼に食べたばかりでもあったので、鯛のかば焼き弁当(80NT=300円)を選んでみた。

 眺めのいい2階席もあるが、ディーゼルカーの中で食べてもよいとのことで、無料のスープを汲んで外に出た。日本人にも懐かしい感じのする古びたディーゼルカーは、60年代製造の東急車両製。緑色の転換クロスシートに座り弁当をつつけば、汽車旅気分が盛り上がった。

 池上駅前界隈自体は、地方の小さな町なのだが、街の電気屋さん以上、大型電気チェーン以下といった規模の中堅電気屋さんがあった。その店名が「大同3C展售中心」とあってビックリ。3Cといえば、日本の高度経済成長期、3種の神器…カラーテレビ、クーラー、カー…を指した言葉じゃないか。そんな和製英語が生きているとは、台湾の日本文化浸透度はすごい。と早とちりしていたのだが、後で検索してみれば、台湾ではいわゆる「黒モノ家電」を指す言葉らしい。何事も調べてみるものだ。

 丁度1時間後の莒光号で、さらに北上する。16:28発の73列車は金・土・日のみ運行の週末臨時列車で、例外的に立席乗車(無座)の扱いはない。前方3両が、自転車の積み込ができる特別仕様になっており、東海岸へのレジャートレインなのである。東海岸の各自治体は自転車レジャーを売出し中で、台鉄とタイアップした列車のようだ。

 しかしこの日、自転車を持ち込んだ乗客はゼロで、3両はからっぽ状態。通常席の方も空席の方が目立っていた。実はこの列車、2週間前の切符売出し時には数分で売り切れており、その後何度確認しても満席状態。立席乗車もできないので困っていたのだが、昨日高雄で自動券売機に向かってみたら、難なく買うことができた。謎の売れ方をする列車である。

 今日の目的地・瑞穂には莒光号も停車するのだが、手前の玉里で下車した。駅前に建物は多いのだが、人の気配は少ない。駅の背後には低い山が連なり、高原の駅のように見えなくもない。

 窓口で切符を買い、後続の普快車に乗り込む。ステンレスの車体には、腰の下にコルゲートの横ラインが入り、図鑑で見た古い東急電車を思い出すスタイルである。1966年にデビューした、日本製の特急型ディーゼルカー・DR2700型だ。この列車に乗りたいがために、玉里でわざわざ「段落とし」したのである。

 玉里駅を始め、台東線の各駅は工事の真っ最中。駅の改良工事とともに電化が進められており、完成の暁には普快車も通勤電車に置き換わるとウワサされている。改良工事でホームは嵩上げされたが、DR2700型のデッキは昔のホームに合わせて低くなっており、ステップがまるで落とし穴のよう。過渡期の姿とはいえ、このまま運用させちゃうあたりは大らかだ。

 緑色のロマンスシートが並ぶ車内は、元優等列車の風格を感じるところ。ただ座席そのものはガタがきており、回転させてもうまく固定できない。座席は運転席の横、最前部まで配置されており、特急時代は展望車として羨望の的だったことだろう。現在は車掌席として使われており、勝手に座ってしまわないよう「車長席 Staff Only」とマジックで殴り書きしてあった。日本人を始め、外国人のファンが多く乗っていることも示唆する文面である。

 元特急型とはいえ、製造時の時代が時代なので冷房はなく、それゆえに普快車である。客室真ん中の円弧型のくぐり戸は、どうしても車内に飛び出さざるをえなかった、ディーゼルの排気管を隠すための装飾。日本人技術者のアイデアで台湾の受けもよく、その後の車両に受け継がれている。

 古びたディーゼルカーはエンジンの音も高らかに、改良の終わった真新しい線路を走り始めた。振動が原因なのか立てつけが甘いのか、スピードを上げるほどに窓枠はガタガタと大合唱。照明もチカチカしており、虫の声が響く外部から吹き込んでくるのは、生ぬるい夕方の風。客車もディーゼルカーも、普快車は時代離れした汽車旅を提供してくれる。

 「Staff Only」席に座った車掌さんは、玉里発車時には弁当を食べており、特に仕事を始める気はなさそう。三民駅を出る頃、おもむろに車内改札を始めた。ドアは手動だから当然ドア扱いはなく、ホームの安全確認は駅員さんがやってくれるので、車掌さんは車内改札に専念できるというわけである。

 日も暮れかけた頃、瑞穂に到着。ドアは連結部にしかなく、2両編成の列車の乗降口が、真ん中2ヶ所に固まった格好である。こんな構造では乗り降りに時間がかかってしまうが、だからこそ日に数本しか走らないローカル区間で余生を送っているのだろう。



▲サイクルトレインはガラガラだった


▲出発準備を行う光華型ディーゼルカー


▲円弧状のくぐり戸はこの車両が元祖


▲先頭まで座席が続く


「温泉旅館」での一夜


▲高原の宿といった趣の瑞穂温泉山荘


▲和室は旅館の雰囲気だが、たたみは年季が入ってる

 今宵の宿は、駅から山間に向かう途中にある瑞穂温泉である。バスの便はほとんどないらしく、駅前に止っていたタクシーを捕まえた。ところがおじさんの運転手さんに「温泉山荘」と伝えても、どこだそれはといった反応。それでも、何とかしてくれようとしてくれるのはありがたく、周りの運転士さんらに聞いてようやく分かったようだ。

 人家の明かりも少ない田舎道をひた走ること約10分で、目指す瑞穂温泉山荘に到着。タクシー代は180NT(670円)と、日本よりはだいぶ安かったが、もろ手を上げて喜ぶほどではない。

 友人の友人を通じて予約してもらった瑞穂温泉山荘は、たった570NT(2,100円)で朝食付きの和室に泊まれる温泉宿。和室はもちろん日本統治時代からのもので、かつては警察の保養所だったとのことだ。ただ、畳の古さは相当なもの。すっかり色が変わり、湿気を吸い込んでしまった畳は、廃屋のもののようだ。台湾では簡単に畳は手に入らないだろうし、日本の感覚で考えてはいけないのだろうが、畳に直接座ることはついにできなかった。

 ともあれ、温泉である。大晦日に入った新北投温泉こそ裸で入れる日本式だったが、台湾では水着を着て入る混浴が主流。ゆえに露天風呂も囲いや目隠しはなく、かなりオープンである。脱衣所や更衣室もなく、露天風呂の横にあるシャワー室で体をきれいにして入るとのこと。このあたりの流れがよく分からず、宿のおばさんを質問攻めにして迷惑をかけた。

 温泉は茶褐色で、鉄分をたっぷり含んでいる。湯の通り道は析出物が自然の造形を作り上げており、何かの遺跡のようだ。九州の長湯温泉レベルの鉄泉で、これはいい湯。夕方なのに入浴者は誰もおらず、一人のんびりと鼻歌交じりで、異国の湯を楽しんだ。のぼせて上がる頃にドヤドヤとやってきたのは、大陸からのツアー客。途端に騒がしくなってしまい、早めに入っておいてよかったと思う。賑やかなのは我慢するが、所構わず唾を吐くのは勘弁してほしい。

 日本語のできる宿のおやじさんに「夕ご飯は?」と聞かれたので、少し食べたいと答えると、下の方にファミリーマートがあるからというまさかの答え。サービスが悪いわけではなく、大陸の団体さんの応対で、てんてこまいになってしまったようである。そうとなれば仕方なく、坂を下った集落にあるファミマへ。田舎街ではあるが、悠遊カードを使えるのも、今の日本に通じるところがある。

 ビールと麺線を買うと、麺線は袋ではなく、紙製の網に入れて渡してくれた。朝食会場のテラスに出て、ビールを開けて一人ビアガーデンをスタート。麺線は、レトルトにしてはよくできていておいしかったが、もちろん西門町で食べた麺線の方が数段うまかった。窓もテレビもない部屋に戻る気もせず、南国の夜風に吹かれながらゆったりしていたが、僕の存在に気付いたのか、消えていた灯りをスタッフがそっと灯してくれたのは嬉しかった。

 水着の露天風呂の他にも個室湯があり、宿泊者はタダで借りられるということで、入ってみることにした。案内された部屋の浴槽は空っぽで面喰うが、これも台湾方式らしい。コックを全開にすれば勢いよくお湯が出てきて、十分も経たずに満杯になった。お湯の使い回しをしていない証ともいえる。

 注ぎたての湯を楽しんでいると、隣り合う露天風呂から、大騒ぎする親子の声が聞こえてきた。台湾のお風呂のマナーには反しており、件の大陸からの観光客らしい。他に入浴客もおらず、迷惑は掛けていないようだから、まあいいか。

 温まった体を布団にもぐりこませ、田舎の温泉町での一夜は更けて行った。


▲1月でも夕涼みのひと時を過ごせるデッキ


▲麺線の包装?は独特


▲個室湯では新鮮な湯を楽しめる


▼8日目に続く
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