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2日目【10月13日】 野崎島滞在
人々が暖かく暮らした痕跡


鹿の島


▲ガイドさんの説明に耳を傾けながら、無人の集落を行く


▲次第に自然物に浸食されていく人工物



▲酒瓶はあちこちに積み上がっていた

 野崎島のある小値賀町は、「アイランドツーリズム」を標榜し、古民家ステイや自然体験など、さまざまな過ごし方を提案している。野崎島でも、まずはガイドツアー(4,200円)に参加して、島を一通り学習することにした。宿への荷物は車で運ばれ、身軽になって散策スタートである。

 地元・小値賀のガイドさんは、島の歴史から動物、植物にまで精通されていて、すみずみまでガイドしてくれるのはもちろん、どんな質問にも答えてくれる。まずは野崎島でも最大の集落だった、港周囲の野崎集落へと歩みを進めた。

 野崎島には3つの集落があり、最盛期には650人が暮らした島だが、その後の経済成長や社会情勢の変化で人口が急減し、1990年代には事実上の無人島になった。最後の住民は、島の神社の神主さんだったとのこと。無人島になるとなにかと不都合という理由から、1人が島に籍を置いているが、定住者というわけではない。しかし人が離れて20年近いのに、生活の痕跡は今も色濃く残る。

 例えば家屋の中には、離島の際に持って行ける荷物も限られたことから、テレビや食器といった「モノ」も、昭和の色のまま残されている。家の横にはビール瓶や一升瓶がごろごろ転がっていて、漁を終えては酒を酌み交わす漁師の姿が浮かんでくるようだった。

 しかし主のいなくなった木造家屋は、急速に朽ちて行く。神主さんの家は、少しでも手を入れれば住めそうな気配だったが、最近になって梁が落ちた家もあり、崩壊も時間の問題のように見えた。壁も柱も木や土といった自然物で作られた家は、いずれ瓦だけを残して土へ還って行くのだろう。

 同じ長崎県の端島・通称「軍艦島」には先週訪れたばかりで、あちらはRC造の高層団地が崩れかけていた。コンクリート造と木造という違いはあるが、生活の痕跡を残した島が朽ち果てている過程にあるのは、どちらも同じ。年々、姿を変えて行く途上にある島々である。しかし今もひょっこり島の人が姿を現しそうな区画もあり、どこか温かみを感じる野崎集落であった。

 集落を抜けると、通称「サバンナ」と呼ばれる平原が現れる。きれいに刈りそろえられた芝は、もちろん人の手によるものではない。有人島の頃から野崎島は鹿だらけで、今も400頭ほどが生息している。しかし鹿の数に対し、エサとなる植物は充分ではなく、食べられる草は食べつくされた結果、きれいに芝の長さが揃っているわけである。

 足元をよく見れば、鹿の糞がゴロゴロ。島に張り巡らされた鉄柵は、有人島だった頃に農作物を鹿から守るため作られたものである。当時は鹿と人との共生状態であり、戦いでもあったのだろう。しかし人は別の理由で島を離れ、鹿が島の主として残った。

 この鹿たちの数がなぜ正確に計測されているのかというと、年に一度、研究機関による調査が行われているからだ。人間がいた頃よりも「自然淘汰」で数百匹は減っているとのことだが、今生きている鹿もやせ型のものが多く、適正量よりはまだ多いらしい。果敢にも海を渡る鹿もいるらしいが、野崎を離れた時点で保護対象ではなくなるため、残念な結果が待っている…らしい。

 集落を離れると、島では数少ない畑地だった谷に出た。石を丁寧に積んだ段々畑では、稲作も行われていたそうである。農業水路は今も機能し、山の清水が使われることなくダイレクトに海へ注ぐ。田畑を覆うものは今、揃ったきれいな芝である。

 登り坂を上がる途上にあるのは、この島ではめずらしいRC造の住宅。教員住宅かと問えば、ビンゴだった。木造よりも耐久性はあり、ぱっと見た目では現役のよう。実際、今も1部屋だけは時々宿泊場所として使われているとのことである。その他の部屋はガラスが割れ、嵐の際には風雨が吹き込んできそう。畳や布団がそのままの室内は、荒れるに任せていた。

 もう一つの集落・野首へは、峠道を超える。峠の頂上からみた海は、九州とは思えないように澄んでいた。ここまで登ってきた辛さも、吹き飛ぶかのようだ。

 峠を下って、旧野首集落へ。現在この野首集落に残るのは、のちほど行く自然学塾村と、旧野首協会くらいである。明治時代には長崎の他、久留米の隣町の大刀洗でも多くの教会建築を手がけた名工、鉄川与助の初期の作品である。教会としての役目を終えた建物ではあるが、ツアーに参加すれば見学することができる。日本の伝統工法で教会建築に挑んだ、試行錯誤の跡が随所に残っていた。


▲広大な芝生の平原が広がる、通称「サバンナ」


▲教職員宿舎前もきれいに刈り込まれている


▲人が離れた後も島を見守る野首協会


島のきままな時間を愉しむ


▲青い海を独り占め!


▲ビールを傾けつつ、時間の流れを楽しむ



▲夜の給食

 約2時間の散策は、自然学塾村に戻って終了となった。自然学塾村は、1985年に廃校となった小中学校の木造校舎を利用した研修施設で、宿泊が可能。今日はここで一夜を過ごす予定である。

 島で唯一、トイレや電気が使える場所でもあり、日帰りの散策でもここが拠点となる。思えば、公称人口が1人の島にも関わらず、電気が通り、水を使え、定期便まであるのだから、こんなに便利な「無人島」もそうそうないだろう。

 学塾村で、今回のメンバーのあと2人と合流。さっそくお昼ご飯の準備に取り掛かる…前に、すでにカレーは出来上がっていた。基本自炊の施設ながら、上げ膳据え膳で申し訳ない。

 客室での食事は御法度で、談話室で食べるルール。畳敷きにこそなっているけど、雰囲気は懐かしの木造校舎である。食器も、どこか懐かしい塩ビ製。学校の雰囲気と相まって、給食を食べている気分になった。

 ちなみに調理室は、たぶん元は給食室なのだろう。鍋や食器、調味料は完備で、最小限の食材さえ持ち込めばよく、考えようによっては便利だ。ただ野崎島に渡ってしまえば当然、新たな食材は手に入らないのだから、計画性のある人が一人はいないと、悲劇をみることになる。清涼飲料水とビールだけは、自販機で手に入るのは面白い。

 午後は、ビーチに下った。青い海を見ていると飛び込みたくなるが、季節外れの猛暑とはいえ、さすがに泳ぐには寒い天気である。つまみと酒を持ち出し、波音を友達に、他愛もない話をしながらのんびりと過ごした。暑さの中で、ビールがうまい!

 夕方5時には、夕ご飯の準備を開始。料理のノウハウはホントにないので、オロオロするばかりだったが、ちょっとは力になれたのだろうか?メニューは、先発隊の昨日の「釣果」の南蛮漬けに、パスタやチーズ盛りも合わせた豪華版。ありがたや、ありがたや。

 ろくに明かりもない島なので、夜は外出禁止令が下るのだが、学校譲りの広いグラウンドがあり閉じ込められた感はない。夏場はグラウンドでのテント泊もOKなのだが、テントは持ち込みではなく、ウッドデッキ上の骨組みに天幕を張るものである。キャンプシーズンではない今は使われておらず、「2次会」はデッキの上で楽しむことにした。

 離島なので星空は美しいが、その分、半月であっても月の存在感は大きい。月明かりには、くっきりした自分の影が映り、驚きだった。

 デッキでの酒盛りに加わってきたのは、そんな月灯りで写真を撮影するという「ムーンライトフォトグラファー」さん。30分もの間シャッターを開け放して撮るのだとかで、タイマーが鳴る度に「ちょっと行って来ます」と遠くに置かれたカメラとの間を往復されていた。野首教会も、今回の被写体の一つのようである。

 出会いに乾杯、いつまでも飲んでいたい夜だが、消灯時間は22時なので、名残惜しいが切り上げである。学校施設ではあるが、離れの棟には家庭用浴槽の風呂場があり、さっぱりすることができた。全体的にも古くはあるのだがボロではなく、多くを求めなければ快適に過ごすことができる。

 夜の学校といえば少し怖いイメージもつきまとうものだが、ここは特にそんな雰囲気もなく、そして何も起きずに、平和な島の夜は更けて行った。

 

▲ビールと飲み物だけは島でも手に入る


▲半月が照らす夜



▼3日目に続く
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