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1日目【4月4〜5日】 福岡→東京→大船渡→釜石→宮古
4月5日・南リアス線復活!


飛行機と夜行バスで駆けつける


▲マーチエキュートのカフェバーで1杯


▲駅前の普通のバス停に発着する夜行バス



▲ゆったりシートに包まれて北上

 東日本大震災で、大きな被害を受けた東北地方太平洋沿岸の鉄道路線。JR各線の復旧は少しずつ進んでいるものの、三陸沿岸の各路線は未だ復旧の目途が立たない区間も多い。

 そんな中、被災わずか5日後に部分運行を再開し、少しずつ復旧区間を伸ばしてきた三陸鉄道(三鉄)が2014年春、ついに全線再開を果たすことになった。より被害の大きいJR各線と同列には語れないが、一時は再起不能とも言われた三セク鉄道の復活の意義は大きい。

 少しずつ伸びる三鉄には、これまで3度に渡って乗りに来ていたので、思い入れもひとしおである。悲願の全線復旧がかなう瞬間を届けたくて、九州から遠路、飛行機と夜行バスを乗り継ぎ現地に向かうことにした。

 南リアス線復旧の前日、4月4日(金)。仕事を終えた僕は、全日空機で福岡から羽田へ飛んだ。金曜日の飛行場と飛行機はスーツ姿で混み合うが、一週間の仕事を終えた人々の表情は、どこかほっとしている。

 羽田からは、京急と地下鉄を乗り継いで神田へ。東京出向中の友人と合流し、商業施設「マーチエキュート神田万世橋」を訪ねた。戦時中に廃止された旧万世橋駅跡地を再開発した、JR系列の商業施設である。歴史あるレンガのアーチが現代に活かされている様子は、ヨーロッパの風景のようで好ましい。

 そんな中でも、両側を中央線の電車が駆けいく旧ホーム上のカフェ「N3331」は鉄っちゃん垂涎のスポット。一度昼にコーヒーを飲んだことはあるのだが、ぜひ夜に一杯やってみたくて、わざわざ訪ねてみた。ビールのグラスを傾けている間にも、両側では「日常」を満載した中央本線の電車が駆け抜けて行く。電車の中からの視線は間違いなくこちらを向いており、気恥ずかしいやら、優越感を覚えるやら。普通の生ビールも、千金の味がした。

 45分そこそこで退席し、混雑している丸ノ内線で池袋へ。部分的に地上区間を走る丸ノ内線だが、楽しめた車窓といえば後楽園前後の東京ドームくらいだった。西口のマクドでお腹を満たした後は、駅前から出発する気仙沼・大船渡方面の夜行バス「けせんライナー」に乗り込んだ。早くから予約でいっぱいになっていたのも、明日の三鉄再開に立ち会う旅行者の影響だろうか。

 3列シートのゆったりバスで、トイレに行きやすい最後尾の座席を抑えておいた。後部座席を気にせず、リクライニングできるのもメリットだ。カーテンを閉め、車窓にはわれ関せずでひたすら目的地に走る夜行バスは、夜行列車と違って単なる移動装置に近い。買い込んできたビールを遠慮がちに流し込むと、一週間の疲れもあって、都内を抜ける頃には夢の中へと堕ちて行った。


1年を迎えた大船渡線BRT

 目覚めれば、バスは一関を出て気仙沼方面へと抜けるところだった。昨秋に乗った仙台〜大船渡間のバスと、同じルートを走っているようである。もう一度うとうとしていると、気仙沼市内へ。市役所前で半分ほどの乗客を降ろし、陸前高田へと進路を変えた。

 大船渡線だと1駅の鹿折唐桑駅付近は、津波とその後の火災で、大きな被害を受けた地域。昨年10月の時点で、駅前に打ち上げられた漁船「第18共徳丸」は解体工事中だったが、すっかり取り除かれていた。空き地ばかりだった街には、ポツポツとアパートが立ち始めている。

 山を越えれば、ほとんどを流されてしまった陸前高田の市街地跡へ。昨秋は道路を作っているのだと理解していた吊り橋は、山から海への土砂を運ぶためのベルトコンベアー。山を切り崩し、平地を高台にするためのもので、「山、海へ行く」と呼ばれた神戸市の都市開発のようである。再び人の住む街にするための大規模工事は、7時前から既に動き始めていた。

 現在の市中心部の機能は高台に移っており、陸前高田市役所仮庁舎前で下車した。JR大船渡線の「仮復旧」と位置付けられているBRT(バス高速輸送システム)の陸前高田駅も同じ位置に設けられており、陸前矢作行きのバスが待っていたので乗り継ぐ。早朝6時半のバスの乗客は、僕らだけだった。

 大船渡線BRTは昨秋、盛〜気仙沼間で乗ってみたが、陸前高田から分岐する矢作方面の「支線」は未乗だったので、今回「乗り潰し」。陸前矢作も本来は「本線」上の駅だが、BRTは所用時間短縮のため高田〜気仙沼間をバイパスでショートカットするので、経由しない矢作方面をカバーするのが、この「支線」なのである。

 プレハブの役所や金融機関が集まる「仮の官庁街」を出発したバスは、高台の裏手に降りて行った。チェーンのホームセンターや携帯ショップ、100円ショップなども立ち並んでいるが、これらもすべてプレハブで、「仮のロードサイド店舗外」といった趣である。市街地の嵩上げが完了すれば、そちらに移転するのだろう。

 高田〜矢作間の支線区間はほとんど一般道を走るBRTだが、唯一の中間駅・竹駒駅前後の数百メートルだけは専用道になる。この長さではBRTの「高速」性能は発揮できず、むしろ専用道の出入りに右左折を繰り返し、時間を要しているように感じた。ただ普通のバス停より、「駅」としての存在感があるのは確かだ。内陸としか感じられない場所だが、川を遡上してきた津波で周囲は駅ともども被害を受けている。矢作駅方の鉄橋も、落橋したままだった。


▲早朝のBRT車内はぼくらだけ


▲陸前矢作駅前は、駅前らしくない


▲錆びついた大船渡線の鉄路


▲浸水域の専用道を行く


▲線路跡の専用道を走るBRT



▲鉄道時代と変わらぬ車窓

 高田から9分で、行き止まりの終点・矢作駅着。立派なトイレ付の「駅舎」が設けられており、こざっぱりしたスタイルは新交通システムのようだ。ただ本来の鉄道の駅からは離れた所に位置しており、周囲に駅前らしい雰囲気はない。朝7時前という時間だが学生さんが集まってきており、BRTに乗るかと思いきや、観光バス型の「通学支援バス」に乗り込んで行った。高田高校仮校舎への通学バスである。

 駅前の大船渡線には3年以上列車が来ておらず、線路はすっかり錆びついていたが、草ぼうぼうになっていないのはせめてもの救いだ。内陸を走る上鹿折までの線路はほぼ無傷で、区間運行ででも再び列車が走る日を願うのだが…

 支援バスに乗り遅れたと思しき学生さん1人と共に、盛方面のBRTに乗り込んだ。陸前高田でも数人の学生が乗り込んできて、さみしかった車内が賑やかになる。小友までは高台の農免道路を走り、沿道には新しい住宅や商店が張り付いてきていた。海は見えるが、はるか眼下である。

 小友からはBRTのBRTたる所以、大船渡線の線路をはがして舗装した、10km以上に渡る長い専用道へ入る。小友駅付近も津波の被害を受けた地域で、真新しい専用道の両側では、農地の復旧工事が進んでいた。

 専用道上の細浦駅で下車した。少し高い位置にある駅とて無傷でなかった様子は垣間見え、駅前は、本来の街並みを思い起こすには想像力が必要な状況である。呆然とたたずんでいたら、かつては気動車が走った築堤の上を、新しい赤いバスが高田方面へと走って行った。

 駅の周囲こそ生活の気配がなくなってしまったが、岸壁には多くの漁船が留め置かれ、港町の活気を感じられる。岸壁は地盤沈下を起こし浸水していたが、コンクリートで小さな防波堤を作って仮復旧した状態。港湾施設も、本格的な復旧工事が進んでいる。三陸沿岸は、これからも海の恵みと共にある。

 細浦駅を出発したBRTは、海沿いの崖地を走る。内陸に入る道路からは見られない車窓で、養殖筏が点々と浮かぶ風景は風光明媚。4月17日からは、席が窓側を向いた観光型BRTも走り始める予定で、車窓名所の一つになることだろう。ただいつかは、ボックスシートに足を投げ出して、のんびりとディーゼルカーから眺めてみたい車窓である。

 浸水域でも工場の復活が進み、漁業・工業の街の活気を感じながら大船渡市内へ。終点・盛駅は、駅前広場から向かって右の、こぎれいな駅舎がJR、すなわちBRTのもの。左側の小さいながらも、オレンジ色が鮮やかな駅舎が三鉄のものである。今朝、全線復旧を果たした南リアス線の駅舎に移った。


吉浜の、その先へ

 三鉄盛駅は、きっぷやグッズを買う人でごった返していたものの、小さな駅舎に入りきれないほどの人ではない。窓口で、南リアス線全線復旧の記念フリー乗車券を購入。盛〜釜石間の片道運賃が1,080円のところ、南リアス線全線を1日乗り降り自由で1,000円なのだから、かなりお値打ちである。赤字の中を頑張ってきた三鉄に申し訳ないようで、せいぜいグッズ購入で貢献しよう。

 BRT運行のため、舗装で埋められたJRの線路を平面移動して、三鉄のホームへ。釜石行きの列車は、昨年の盛〜吉浜間の部分復旧時に導入された、クウェート寄贈の新型気動車である。車内は木目の床が優しい雰囲気を作っており、ボックスシートはゆったり。テーブルも備わり、観光対応の車両である。正面には三井不動産提供のヘッドマークが添えられ、全線復旧を祝っていた。

 列車は単行だったが、全員が座れるだけの余裕があった。ニュース性のある始発列車からすでに3本目の列車、さりとて休日のお出かけには早い時間帯である。8:50、定刻に盛を離れた列車はしばらくBRTの専用道と並行し、左へカーブを切って分かれて行った。

 ループを描いて、大船渡市内を北へと向かう。大船渡市内も大きな被害を受けており、沿線には仮設の建築物が並んでいた。車両基地のある大船渡市内側の線路がやられてしまった南リアス線では、北リアス線のような震災直後の部分運行はかなわなかった。霧のような雲が低い山にかかり、あまりすっきりしない天気が続く。

 吉浜までは既に昨年春、部分復旧した区間だが、各駅では大漁旗をなびかせてお祝い。復旧工事中の岸壁にも、足場の上に「次世代へつなげ」という力強いメッセージが掲げられていた。

 沿線でも大きな規模の駅である三陸駅では、盛行きの上り列車とすれちがい。あちらは、ぎっしり満員だった。こちらの列車に乗り移ってくる人もおり、車内には立つ人も出はじめた。

 津波の被害が見られない集落が見えてくれば、吉浜駅着。吉浜集落は明治三陸大津波で高台移転を行い、今回の震災でも家屋への被害は最小限だったという。ホームでは、地元の少年たちが太鼓を鳴らして出迎えてくれたが、定期列車なので、所定の停車時間で発車してしまうのが惜しい。そしてここからは、昨秋は乗れなかった今日復旧の区間へと踏み出していく。

 列車のスピードが、途端に落ちた。工事が終わって間もないことから、吉浜〜釜石間では当面の間、徐行運転が続けられることになっている。盛〜吉浜間も概ね半年程度は徐行運転だったし、北リアス線も1年間は徐行を続けていた。


▲右がBRT、左が三鉄の駅舎


▲クウェート寄贈の新型車両


▲工事現場に掲げられたメッセージ


▲唐丹駅でも大量旗の見送り


▲平田駅から同乗取材を始めた「戦場カメラマン」



▲さら地の方が目立つ釜石の海岸地区

 大船渡では悪かった天気も、吉浜を出発する頃にはすっかり春の青空になっていた。昭和50年代に開業した三陸鉄道は高規格で、リアス式海岸の多くをトンネルで突っ切るため、実はそんなに車窓から海岸の車窓は楽しめない。ただトンネルの合間から見える海は、穏やかな春の表情を見せていた。

 周辺が浸水したという唐丹駅でも、大漁旗の見送りが。平田駅も、片面のホームには町内会の祝賀横断幕が掲げられていた。前のドアからは戦場カメラマン…と思いきや、物まねのレポーターが乗り込んできて、カメラを向けたら「逆取材を受けているような状態となっております」とコメントされてしまう。生中継による同乗取材のようで、「本体」の釜石駅と結んでの2元中継のようだ。車内の乗客にユーモアを交えつつインタビューしていた「戦場カメラマン」だったが、トンネルに入り中継が切れればいたって真面目に段取りをしており、オン・オフを切り替えるプロ魂を垣間見る。

 トンネルを抜ければ、釜石市街地である。漁業と工業の街らしい活気も見られるのだが、今はさら地の方が目立っていた。新しいショッピングモールが立ち、復興の息吹は感じられる。半年前は吉浜までしか行けなかった線路は、1年前に内陸経由で行った釜石まで、確かにつながった。

 釜石駅到着。ホームは見物人とマスコミでごった返しており、降りるやいなや「どちらから?」「福岡なんて珍しいです!どうかお願いします」と必死にお願いされ、IBC岩手放送のカメラの前に立った。女性レポーターからの問いかけに、沿線の盛り上がりに感動した、これからも応援してますとしゃべったように記憶しているが、うまく伝わっただろうか。土曜午前中の朝ワイドの時間とあって、各局は競って中継を行っていたようである。

 喧騒を抜け、地下道に降りると、応援メッセージの寄せ書きコーナーが。サインペンを手に、それぞれが思い思いのメッセージを寄せていた。駅前では出店や記念式典の準備が進んでいたが、人出はさほどではない。午後の式典に向け、徐々に賑わってくるのだろう。

 準備中の駅前を横目に、釜石市街地へ。銀行や店舗の再建は一部で進んでいるが、さら地や1階部分が大破したまま空き家になっている建物も多い。大潮や低気圧の時は冠水の恐れありとの注意看板もあり、市街地の再興には難しさをはらんでいる。


くす玉と万歳三唱で祝う復活

 さきほど車窓に見えたショッピングモールは、市街地復興の一環として市が誘致したもの。通常であれば、既存商店街をおびやかす存在になりがちなモールだけど、被害を受けた街にいち早く賑わいを取り戻す手段としては、有用かもしれない。

 津波浸水域のショッピングモールだけに防災対策は万全で、通常なら屋上にある駐車場をピロティ形式にした1階に設けているのが特徴。館内にも、一時避難場所とされている屋上への避難経路が、あちこちに記されていた。テナントは全国大手のものが多く、地域性はあまり感じられないけど、従業員のほとんどは地元雇用とのことだ。

 釜石駅前では出店も営業を始め、賑わいが増してきたように感じる。それでも13時30分からの式典までは時間もあるので、お隣の平田駅まで往復することにしてみた。盛方面の列車はやはり1両運転で、行きの列車よりも混んでいたが、まだなんとか車内を移動するだけの余裕はあった。

 小さな築堤上の無人駅は、町内会の横断幕、大漁旗、そして全線再開で「つなぐ」と宣言するノボリが、折からの強風にはためいていた。抜けるような青空と海を背景に、オレンジ色が鮮やかだ。南リアス線は津波被害もあったが、震源に近い分、実は地震そのものの被害も多く受けているという。真新しい築堤は、被害の大きさの裏返しでもあった。

 平田の集落も、よく見ればまだまだ傷が深い。海辺にはがれきが積み上がり、処分の作業は休みなく続く。イートインコーナー付きのコンビニがあったのは幸いで、ホットコーヒーで体を温めることができた。

 盛駅11時発の列車は、約10分遅れで平田駅に到着した。盛発の再開一番列車に運用された車両で、車内は造花で飾られている。それはいいのだが、ぼちぼち乗客が増えてくる時間なのに単行で、ぎっしり超満員。詰めても、ホームに何人かが取り残されそうな状態だった。

 30年前の北リアス線開業日の小本駅も大混雑で、車内の人にトイレへと詰めてもらってどうにか乗れた…そんなエピソードを思い出した。新型車両のトイレは車椅子対応で、なお広い。すみませんがとトイレの前の人に呼び掛けたら協力してくれて、ホームの人は全員乗ることができた。計らずとも、30年前の光景の再来となった。


▲ショッピングモールの至る所に避難経路の案内


▲平田駅のお祝い横断幕も地元からのもの


▲ぎっしり満員の釜石行き


▲新鮮な海の幸は三陸の楽しみ


▲浮かれることなく坦々と挨拶を述べる望月社長



▲ぎっしり埋まったホームでの出発式

 釜石駅に戻り、駅横のシープラザ釜石でお土産の買い出しと、お昼ご飯にした。三鉄復旧の日とあって2階の食堂は繁盛していたが、入り口前の椅子と記名簿は日頃から備えてあり、人気の店のようだ。新鮮な魚介類は三陸沿岸の楽しみで、海鮮丼とビールでいい気分になった。

 13時30分から、特設会場では全線運行再開記念式典が始まった。会場はテントだったが、透明な壁で覆われているのは寒い北国ならでは。入りきれなかった僕らは、ガラス越しに見学することになった。まずは震災犠牲者への黙祷から始まり、華やいだ雰囲気ながら、新線開業の式典とは意味が違うものであることを思い知る。

 沿線首長や国土交通大臣の祝賀挨拶に続き、三鉄・望月社長が、「第2の開業」という言葉で全線再開を宣言。震災直後の部分運行への努力、全線再開を目指すための資金調達への奔走を経ての、第2の開業である。万感胸に迫るものがあるはずだが、トーンは極めて坦々としたものだった。沿線人口の減少を背景に、実は震災以前より運行本数が減少している。赤字体質は震災以前からのことで、浮かれる間もなく、一層気を引き締めているようだった。

 かように極めて真面目で、おごそかな式典だったのだが、僕らと同様にガラス窓をのぞく人は多数。三鉄復旧への関心の大きさはもちろんだが、赤十字大使として参席していた藤原紀香を一目見たいという人も多かったようだ。見えた!芸能人はオーラが違う!と、会場外も興奮に包まれていた。

 式典は広場からホームに移り、記念列車の見送りへ。ホームに上がってよいものか判断がつかず、地下道にいたのだが、階段にいた駅員さんが手招きしてくれた。ホーム上はすでに人でぎっしりではあったけど、隙間に潜り込んで出発式を見届けることができそうだ。

 記念列車は、レトロ列車を併結した3両編成。乗車できるのは招待客と、抽選で当たった一般市民のみで、さきほどの式典に参席できたのも同じ人々だ。記念列車への乗車権はメールで募集しており、僕ももちろん応募していたのが、あえなく落選した。ホーム上での出発式は、来賓の方々くすだま割りと万歳三唱という、昔ながらのもの。30年前の出発式が、再現されたかのようなものだった。


山田線の将来を描きながら宮古へ

 さて時間は午後2時を過ぎ、そろそろ明日開業の北リアス線の始発駅・宮古へと向かう頃合いである。釜石とを結ぶJR山田線は不通のままで、BRTによる仮復旧にも地元同意が得られず、代行輸送も行われていない。両都市を結ぶ直通のバスもなく、まずは岩手県交通で山田町まで向かった。

 昨年の年始も同じルートで宮古に向かい、その時のバスはガラガラだったが、今回は同じ目的の人も多いようで、旅行客で満員状態である。前回は都バスタイプの1列座席だったので、同じバスだったらかなわんなと思っていたが、2×1列の座席に加え、路線バスには珍しい補助椅子がついていた。おかげで釜石発車時点では、全員着席できた。

 50分乗った船越駅前で、岩手県北バスに乗り換えとなる。乗り換えの合間に、休止中の山田線の駅へ。錆びついた線路と、板が打ち付けられた駅舎が痛々しく、しばらくは列車が来ないことを伝えていた。ここも線路の草は刈り取られており、荒れた感じはない。

 山田線の復旧には三陸鉄道の倍、200億円の費用がかかると試算されており、協議が難航している理由の一つである。最近ではJRの負担で復旧した上で、三鉄に譲渡する案も提案されている。

 県北バスで、宮古へと向かう。大槌町では工事中の道路を迂回したが、後からGPSのログを見て、そこが旧大槌駅前だったと知った。それほど、線路と駅の跡も、そしてもとあった街並みも想像に難しい。一方山田町には、木造家屋の基礎どころか、3年間から手つかずの建物そのものが多く残っている。まだ鉄道復旧はおろか、街のグランドデザインすら描き難い状況にあった。

 それでも沿線には、山田線の早期復旧を求める立て看板があちこちに見られた。新しい街の計画が決まり、その基幹交通として山田線が復旧する…障壁は多いだろうが、そんな日が早く訪れることを願うばかりだ。

 宮古に到着、駅前は明日の準備で気忙しかった。宿の送迎の車に迎えられ、市内のホテルに投宿。風呂に入って凍てた体を温めた後は、街中で一杯だ。フラリと入った若い大将の居酒屋が当たりで、メニューにない刺身の盛り合わせや、日本酒に合う燻製セットを出してくれた。東北の地酒との相性はバツグンで、杯が重なる。

 飲み明かしたい気分にまでなったが、明日は北リアス線の一番列車に乗るため、5時起きの予定だ。そこそこで切り上げ、10時には布団に入った。


▲列車が来なくなって3年の船越駅


▲山田線休止中の動脈を担う県北バス


▲三陸の海の幸を満喫


▼2日目に続く
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