▲TOP ▲鉄道ジャーニー
0日目1日目2日目3日目4日目5日目6日目7日目8日目9日目

3日目【12月31日】
蒼き三陸の海

石巻→女川→南三陸志津川→気仙沼→唐桑



石巻に残る生活の痕跡

  昨日と同じ、朝六時二〇分に起床。毎日よく歩き、よく飲んでいる割には目覚めがいい。旅行中は多少のことがあっても体調を崩さないし、二日酔いになることも稀。好きなことをやっていれば、無敵である。

 今日も午前中は、ザキと別行動。今日は僕の方が、早くホテルを出ることになった。ユニットバスで顔を洗い、ザキに見送られて重いドアを閉める。誰か、一人暮らしの友人の家に泊めてもらった時の気分と同じだ。

 石巻駅まで出て、タクシーを捕まえ日和山(ひよりやま)を目指した。昨年の同じ日、閉館中の石ノ森漫画館をのぞいた後、何気なく登った山だったが、眼下に広がる門脇、南浜地区の惨状に言葉を失った。それから一年が経った海沿いの街は、ポツポツと残っていた被災建物の取り壊しが進み、災害廃棄物の山も広域処理の成果か、だいぶ減ったように見えた。

 山からしか見えないものもあれば、降りてみれば見えてくるものもある。震災当時、多くの人が駆けあがって難を逃れたという階段を降りて、門脇町へ降りてみた。被災建物や、大きながれきの撤去は終わっているが、家や塀の基礎はほとんどが残ったままだ。基礎の上には、津波でひしゃげた自転車、食器の破片、陽に色あせたファミコンソフト。ここに生活があった痕跡が、一年九カ月を経て尚、残っている。正月を前にしてか、あちこちの家の跡には花が手向けられていた。

 わずかに住宅が残っているが、これとて一階部分は大きく破壊されており、補修して使える状態ではない。取り壊しに着手できない、何らかの事情があるものと察する。浸水域で使える状態で残った建物は、ほぼ皆無だ。一口に「津波浸水域」といっても、波の勢いで建物の損壊率はまったく異なり、門脇、南浜での波の強さは、相当のものだったのだろう。山の上からは一台一台まで見えなかった廃車体の山には、何台もの消防車があり痛々しい。

 津波後の火災で全焼した門脇小学校も、そのままの姿を留めている。児童と先生は全員が日和山に避難し無事だったというが、学校関係者には見るのも辛い光景だろう。それでも校舎には、「門小ガッツ!僕らは負けない」という力強いメッセージが掲げられていた。向かい側の家の跡には、「兵庫県宍粟市民の皆様、多大なご支援誠にありがとうございました!」という立札も。逆境にあっても前を向き、感謝の気持ちを忘れない。決して、簡単なことではないと思う。

 通りがかったタクシーを捕まえ、石巻駅へ。八時一四分発、女川方面の石巻線のディーゼルカーに乗り込んだ。わずか十一分で、列車の終点・渡波に到着。この先女川までは、代行バスへ乗り換えとなる。代行バス乗り場までは案内看板があるし、案内員も出ているので、初めてであっても迷うことはまずない。他線の代行バスでも同様で、評価できる部分である。観光バスタイプの車両で、乗り心地は上々だ。

 渡波〜女川間も震災の影響で運休が続いているが、湾のため津波による破壊は他線に比べ小さく、むしろ地盤沈下による被害が深刻な区間だ。満潮時には駅が浸かる状況だったというが、かさ上げ工事が行われ、真新しいバラストが輝いていた。冬晴れの中、波穏やに輝く万石湾に、心和む。より海に近い場所を走る石巻線から、この景色を見られる日は近い。三ヶ月後の来春には、女川の一駅手前、浦宿まで復旧の予定である。


▲門脇町に建てられていた感謝の立札


▲石巻線・渡波終点もあと3ヶ月


▲高速バス仕様の代行バス(帰路に撮影)


▲復旧間近の石巻線の線路(帰路に撮影)

生まれ変わる決意・女川


▲この標識の示す先に、目的地はない


▲港では、復興イメージがPRされていた



▲「女川の街は俺たちが守る!」

 浦宿から女川へ、トンネルで抜けていた線路に対し、代行バスは峠を越える。仮設住宅や仮設商店街を見て坂を下れば、海沿いの何もない土地が現れた。女川市街地の跡だ。並んでいたはずのビル街は、基礎まで撤去され砕石が敷かれ、開発用地のようにしか見えない。ことごとく破壊されてしまったかつての街の姿は、もう想像の世界でしかない。女川の津波被害の特徴でもあった、基礎から引き抜け丸ごと倒壊してしまったRCビルだけは、三棟が残っていた。他の建物の撤去・整地が進んでいる状況を見るに、あえて残してあるのだろう。

 代行バスは市街地の跡を通過し、役場の仮庁舎や仮設住宅の並ぶ高台へと上がった。旧駅跡は、それこそ何もなくなってしまったので、バスを発着させても便利ではないのだ。坂道を上がり、復旧工事の進むグラウンド前が終点・女川駅だった。

 登ったばかりの坂道を下る。プレハブの仮庁舎には、年末にも関わらず勤務する人の姿が見られた。復旧・復興関連で、仕事は山積みなのだろう。仮庁舎前の案内看板は、JR女川駅0・6キロ、市街地0・7キロ、女川町役場0・8キロを示すが、それらはすべてなくなってしまった。 

 下った先が、JR女川駅跡だ。砕石の敷かれた、広い空き地。積み上げられた枕木を見て、ようやく鉄道関連の「何か」があったことが辛うじて分かるレベルだった。駅前温泉も、駅前にあったという生涯学習センターも、得た知識の中の世界でしかない。現位置であれば、石巻線の復旧はすぐにでもできそうだが、それが適切でないことは周囲の状況を見れば明らかだ。街の復興計画に合わせての復旧になるのだろう。

  横転したビルは、目の前に現実として存在しているのだが、建築屋として理解できない状態である。液状化で杭がゆるみ、横から津波の力を受けて「浮いた」との研究結果が出されているが、理論で説明されても理解できないのは、技術屋として失格なのだろうか。

 こうした各地の「震災遺構」は、保存派と解体派に分かれている所が多いのだが、女川では一定の方向が出されているようだ。周囲の市街地はかさ上げされるようで、足場に計画高さが示されていた。その高さ、5・4メートル。横転ビルをそのまま保存するとなれば、相対的に5・4mの「穴の中」に沈むことになる。見ようとしなければ見られない状態になることで、「津波の跡を見せられては、前に進めない」という声に応えられるのかもしれない。

 横転ビルの横には、祭壇が設けられていた。七十七銀行、女川支店の跡である。屋上に避難した行員十二名が亡くなった場であり、その避難行動を巡り、訴訟に発展している。祭壇にも、花やお供え物と並んで、ご遺族の方々の「思い」が掲示されていた。自らの判断で避難できない、何等かの管理下にあった犠牲者をめぐる訴訟は絶えず、双方の気持ちに至った時、胸が張り裂けそうな思いになる。

 町立病院への階段を上がる。いわゆる「高台」で、ここまで上がれば安全と思える場所なのに、津波はこの高さに達したという。海を見渡せば、雲一つない快晴。温かく穏やかで、恵みの海にしか見えなかった。
 「女川の街は俺たちが守る!中村雅俊」
 「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ」
 高台に掲げられたメッセージは力強い。これからも女川はきっと、海の恵みと共に歩んでいくのだろう。

 息を切らし、“駅”のある高台へ。もともとはグラウンドや野球場を有する体育センターだった場所で、人口一万人規模の街としては充実しているのも、原発の交付金ゆえだろうか。復旧工事が進むグラウンドの仮囲いには、
 「明日のエネルギーを担う 原子の灯りのふるさと女川町 
 陸上競技場は昭和63〜平成元年に電源立地促進対策交付金で整備された施設です」
 という新しい看板が掲げられていた。福島の惨状を見たばかりの目にとって、違和感を覚えるキャッチフレーズではあるのだが、原発を引き受け、共に歩んできた町の自負も、無視していいものではないだろう。

 野球場には現在、全国的にも注目を浴びた三階建て仮設住宅が建っている。一見して仮設には見えず、復興住宅なのかと思ったほどだ。いつかは野球場に戻す計画なのだろう、スタンドやスコアボードはそのままで、マウンドが団地になっていた。

 一〇時〇五分の代行バスで、渡波へ戻る。女川から十数人が乗っていたバスだが、浦宿ではさらに十五人が乗り込んできて、満員に近い状態になった。浦宿から先では、この不便もあと数か月の辛抱である。


▲保存されている横転ビル


▲山積みになった枕木に駅だったことを知る


▲原子力とともに歩いてきた自負


写真の中の美しい街に・志津川


▲気仙沼線の当面の終着駅、柳津


▲BRTは跨線橋を渡り、駅前から乗車



▲大きな被害を受けた気仙沼線は手つかず


▲おしゃれな新交通の駅といった雰囲気の志津川駅舎

 石巻線で来た道を戻り、石巻駅でザキと合流。津波被害からの復旧を終え、十一月に再開したばかりの石ノ森漫画館に行ってきたようで、漫画の持つ力の大きさを感じ、石巻の復興を確信したとのこと。僕は今回も見ることができなかったが、さらなるリニューアルの計画もあるようなので、再訪してみよう。

 前谷地駅で、気仙沼線に乗り換え。一両のワンマンカーは、遅めの帰省客で混み合っていたが、途中駅で降りる乗客が多かった。現在の終着駅、柳津まで乗り通したのは、十数人といったところだ。

 柳津〜気仙沼間は津波の被害を受けて不通になっており、長らく地元バス会社への振り替え輸送が行われていた。JRの代行バスに切り替わったのが八月。中古バスを使用し、一部区間の線路敷をバス専用道に変えての「暫定運行」という位置付けだった。

 そして九日前の一二月二二日には、専用道の延長と低床バスの導入で、本格的に「BRT」としての営業をスタートさせている。地元自治体とJRの間では、沿線の復興計画がまとまり、鉄路による気仙沼線復旧がかなうまでの「仮復旧」という位置付けで合意されているが、さてどう走っていくのか。茨城、福島で見てきたBRTの状況と照らし合わせてみながら、気仙沼まで乗りとおしてみよう。

 柳津駅は島式ホームで、駅前に発着するバスに乗るためには跨線橋を上り下りしなければならない。接続時間は三分。先々の復旧が確約された代行バスなら仕方ないかもしれないが、今後長きに渡るものと思われるBRTなのだから、スムーズな乗り継ぎができるような改善が必要だ。列車ホームの真横にバスが乗り入れられればベストだが、平面移動で駅前に行けるような通路を設けるくらい、すぐにでもできそうである。

 真新しい赤いバスは、低床、ハイブリット式の最新鋭車両。車体には沿線自治体の「ゆるキャラ」が踊り、明るい雰囲気だ。低床バスだから乗降もラクで、車内には運行情報や最新ニュースを表示するテレビモニタも搭載されている。ローカルバスとしてはもちろん、都市のバスと比べても最先端のサービスと言える。ただ、各地の代行バスに比べれば座席数は半分にも満たず、乗りとおせば二時間かかる路線の車両として適当なのかとの疑問はある。

 BRTといえども、専用道区間は五キロにも満たず、ほとんどは一般道を走行する。路盤は地震の影響ででこぼこの所が多く、運転士から注意を促す放送があった。

 一駅目の陸前横山駅までは、特に変わったところが見られなかったが、二駅目の陸前戸倉駅付近からは、まだ山間なのに津波の痕跡がはっきりと残る。気仙沼線も築堤が流され、擁壁は倒れた状態のままだ。内陸奥深くまで、相当な破壊力を持って津波が侵入してきたことが分かった。

 海沿いに出ればさらに悲惨な光景になり、気仙沼線も鉄橋そのものが流出してしまっている。高台に登れば、青空を映す穏やかな三陸の海。その繰り返しに、心も穏やかさとさざめきを繰り返す。

 バスは南三陸町・志津川に入った。報道でも頻繁に接した、甚大な被害となった街である。ところどころに、鉄骨の骨組みだけをさらす建物が残るだけで、市街地と呼べるものはすべて流されてしまった。志津川駅も同様で、バスは駅前広場跡を通過して内陸に折れた。BRT化とともに駅の位置が変わったとのこと。仮設商店街の「南三陸さんさん商店街」の真横にある、新しい志津川駅に到着、下車する。BRTも、「東日本&北海道パス」を始め、各種フリーパスが通用する。

 新しい志津川駅舎は、津波浸水域なので仮設建物という位置付けのはずだが、それとは感じさせない立派なものだった。円形、ガラス張りのデザインは近未来的で、低床バスが発着する様子は、新しい交通システムであることを感じさせる。空調の効いた待合室があり、駅員さんも常駐。改札口の上には運行情報が表示されている。JR東日本の意気込みが伝わると同時に、これで満足してほしいとの気持ちも垣間見えた。

 さんさん商店街は大晦日とあって、開いている店はわずかだったが、さすがに魚屋さんと蕎麦屋さんは開いていて、繁盛していた。蕎麦屋さんは創業昭和三年という歴史ある店で、つるりとした食感は食べたことのないものだった。仮設でこの味を出せるとは、さすがは老舗である。行列もできる混雑なのに、笑顔を絶やさない奥様の余裕も好感だった。

 さっきまでの晴れはどこへやら、小雪の舞う天気に変わった志津川の町を、海沿いに踏み出した。津波で流出したファミリーマートは、仮設店舗で営業再開。仮設といえども、中に入れば普通のファミマである。ATMも稼働していて、残金が底を尽きかけていたザキも、救われた。この後も、三陸沿岸の各地で仮設建物のコンビニが見られた。

 前後の築堤が流された、気仙沼線の陸橋をくぐる。建設年を示すプレートには1976の数字があり、決して古い路線ではないことを物語る。明治三陸大津波の復興の一環で計画された気仙沼線が、開業まで要した歳月は八十年。悲願の末に開業した鉄路は、一九七七年の開業からわずか三十五年で流されてしまった。

 川沿いに下ると、鉄骨の骨組みだけになった、三階建ての建物に出る。南三陸町・志津川防災庁舎の跡だ。町民の一割が犠牲になるという途方もない被害の中、避難を呼びかけ続けた多くの役場職員が亡くなったこの場所は、鎮魂の場の一つになっている。最後まで避難を呼びかけた若い女性職員だけでなく、働き盛りの男性職員も犠牲になっており、ファミマで買ったカップ酒を手向けて手を合わせた。この遺構もまた、保存か解体かの論争の中にある。

 ところどころに建物の跡が見られ、解体された建物のがれきが山積みになり、あとは空き地になっている広大な海沿いの土地。転がっている松原公園の看板。きっとここには、松原が広がっていたんだろう。想像力を働かせる。さんさん商店街の写真屋さんには、海に抱かれた穏やかで、美しい街並みが広がっていた。あの志津川を取り戻すことは無理なのかもしれないけど、いつかは癒しの街に戻ってほしい。

 志津川駅前へ。三十五年前の気仙沼線開業の日、群衆で埋まったという駅前広場は、道路の形からそれと分かるくらいになっていた。駅前のビル数棟も、防災庁舎と同じく最上階まで波に洗われている。もし今、大きくグラリときたら、僕はどう行動を取ればいいのだろうか。南海トラフのように、数分で津波到達と予測されている地震もある。ここから高台までは、走っても十分はかかるだろう。目の前のビルの階段を上るほうが、助かる可能性は高いのではないか。あの日も、そんな判断をした人も多かったことだろう。正しいはずの避難行動が、先の地震では結果的に正しくなかったという事例も多かった。一瞬の判断は助かるための「賭け」なのかもしれないが、一人の人間に課された選択は、あまりに重い。

 駅舎は影も形もなく、築堤上のホームが駅だったことを伝えている。九日前まで現役だったバス停ポールには、×印が付けられていた。ユニットハウスの待合室と簡易便所が残っていたが、設置したのはJRではなく、町の有志だったようだ。鍵は、今も開いていた。

 高台にある、志津川中学校への階段を上った。眼下に広がるのは、動画サイトで見たあの風景だった。でも実際に息を切らして階段を上がり、あるいは下からこの高台を見上げてみてはじめて、波のすさまじさをより実感できた。来てみなきゃわからない、見てみなきゃ分からないし、分かってこそ自身の防災意識に活かすことができる。同じ災害があっても同じ被害にしないために、わが身に照らしていきたい。


▲志津川駅は有人駅


▲大晦日とあって静かだったさんさん商店街


▲一足早い年越し蕎麦を


▲緑と活気あふれる、あの写真の中の街に…


BRTの実力やいかに


▲専用道のトンネル手前には待避所がある


▲狭い鉄道サイズのトンネルを高速走行



▲破壊された築堤の前を走るBRT
 志津川駅から、再びBRTの人となる。一旦海沿いに出たバスは、再び内陸に進路を向け高台に上がり、南三陸町の仮役場があるベイサイドアリーナに立ち寄った。立派な体育施設だが、いましばらくは、復興の司令塔として機能する。BRT化とともに正式な「駅」に昇格し、上屋も整備されていた。

 南三陸町歌津地区へ。こちらの津波遡上高さも相当なもので、高台の上にある歌津駅のホームさえも波に洗われたという。駅舎も流出したが、こちらにもバス用の上屋が設けられた。

 駅前広場から坂道を上がり、警備員の立つ遮断機の先は、BRTのBRTたる所以、バス専用道である。歌津駅からの専用道2・3キロのほとんどはトンネルで、離合場所のないトンネルへ双方のバスが同時に進入しないよう、入口には信号機が設けられている。バス一台がやっと通れる幅のトンネルはまさに鉄道仕様。列車並みの速度とはいかないが、山道をくねくねと曲がる国道に比べ、一直線で結ぶバス道の速達性は高く、高速輸送の面目躍如である。時間短縮効果は三分。志津川駅の移転で伸びた二分の所要時間をカバーして、余りある。

 山間では津波被害を忘れる風景になるのだが、海岸に降りるたびに目を覆いたくなる風景が繰り返される。気仙沼線も、コンクリート構造物がかろうじて残りながら、前後の路盤が流出してしまっている箇所が多い。JRの発表では、最終的に六割を専用道化する計画としており、聞いた時には「たった六割でBRT?」と思ったものだ。しかし実際に被害を目の当たりにすると、本当に六割も専用道にできるのかという思いに変わった。路盤から作り直す区間も多いことだろう。その際は、将来の鉄道復旧を前提とした構造となるのか。沿線自治体も、注視しているに違いない。

 バスは、本吉駅に立ち寄るため国道45号線から旧道に折れ、狭い駅前通りを身をくねらせるようにして走っていく。ほとんどの「駅」は国道や主要道路沿いにあるため、バス停も道路上に設けられているのだが、本吉駅は離れているため時間的にロスが多い。本吉駅の前後だけでも専用道になれば、かなりの短縮になりそうだと、一昨日に乗ったBRT路線を思い出した。

 既設の鉄道駅を「BRTデザイン」に改修した本吉駅は沿線を代表する駅で、三分停車。トイレに行くこともできる。運転士さんもここで交代で、掛け合い漫才のような運転士さん同士の会話に心和んだ。

 本吉駅から先、気仙沼まではバスの本数が倍増し、三十分ヘッドのダイヤになる。鉄道時に比べれば三倍増の本数で、他線の列車代行バスが列車の半分程度の本数に留まっていることを考えると、破格の扱いと言える。輸送力で比較しても、鉄道時代に迫るレベルだろう。

 陸前階上を前に、再びバスは右に折れ、専用道に入った。こちらは夏の暫定運行時から専用道化されており、地域ももう慣れたとの判断からか、入口に警備員の姿はなかった。専用道に入ってすぐの階上駅は駅舎やホーム、跨線橋に至るまで、駅の構造物はすべて残されている。鉄道復旧を放棄したわけではないという意思表示だろうか。

 2・1キロの専用道区間は、速度こそ抑え目ではあるものの、踏切はほとんどがバス優先になっており、スムーズな走り。しかし最知駅で専用道が終わり国道に戻る際、信号がなく通行量も多いため、国道に戻るのに数分を要した。これならストレートに国道を走った方が早く、前後の専用道がつながってこそ、真価を発揮する区間だろう。残った線路敷のあちこちで、専用道化に備えた測量作業が進んでいた。

 県道26号線で気仙沼の市街地に入ると、師走の渋滞に掴まった。定時運行率は高いというBRTだが、日によっては渋滞もありえるだろう。列車との接続は行わないことは時刻表にも明記してあり、乗り換え列車がある場合はハラハラしそうだ。市街地の渋滞区間こそ、専用道が必要…かしてつの例を思い出す。ただ、南気仙沼駅付近は津波で壊滅していると聞き、比較的被害の少ない県道経由がベターという考え方もありうる。南気仙沼駅は、旧駅から離れた市立病院前バス停に設けられている。

 それでも遅れは五分に留まり、気仙沼駅着。駅舎は、こぎれいに改装されていた。三陸地方を見捨てないという意思表示なのか、三陸沿岸の主要駅ではリニューアルが相次いでいる。列車の来ない盛駅も対象だ。

 気仙沼線BRTは、とにかく今できる最善のサービスを提供すべく努力している印象を受けた。列車では一時間もかかっていなかった区間に二時間も要し、速達性での差は歴然だが、専用道の拡大である程度の短縮は図られるだろう。仙台直通列車の利便性もカバーされていないが、たとえば専用道から高速道路経由で仙台に直行するバスなんてあれば代替できそうだ。本数増の努力も評価でき、地元がこれでよしとするならば、BRTのまま走り続けるという選択も否定されるべきものではないと思う。

 ただ、あの美しく蒼い三陸の海を、列車から眺めたい。採算は合わないのは分かる。仮に復旧の方針が打ち出されても、沿線の街づくりを待たねばならず、十年スパンの事業になるだろう。それでもいい、いつか生きているうちに鉄路の気仙沼線に乗りたい。遠来の一旅行者の勝手な、でも率直な思いだ。


▲本吉駅は鉄道駅舎を改装


▲駅施設の残る陸前階上駅


▲専用道ではバス優先


年越しは賑やかに


▲浸水する市街地にたたずむモニュメント「グラウンドゼロ」


▲大規模な仮設商店街「紫市場」



▲海辺には屋台村も
 気仙沼駅は街外れに位置しており、海岸の市街地までは徒歩で十分少々の道のりである。脇道に、跨線橋が参道になっている神社があり、年末のお参りに登ってみた。渡り越す線路は大船渡線の不通区間で、一年九ヶ月の間に線路は赤く錆びついてしまっている。列車が来ないことを知ってか、野良猫が我が物顔で線路を横切って行った。

 北野神社に手を合わせ、境内を散歩していたら、山の上にいたおじさんから「そっちにエゾシカが行ったから」と声がかかってびっくり仰天。至近距離に、愛らしい顔が現れた。北海道の山の中でなら遭遇したことがあるが、市街地に当たり前のように出没されると、野生というより野良鹿と言いたくなる。

 気仙沼市役所の分庁舎は、経営不振の3セク商業施設を改修したものらしく、市役所ばなれした外観が目を引く。駅前デパートを改修した、石巻駅前の石巻市役所を思い出した。市役所から海側が浸水区域で、空き地が目立ち始める。

 海に面した市街地では、解体に至らない建物が多く残ったまま。復旧の速度は自治体によって差が大きく、気仙沼の被害の広さが察せられる。市街地を悩ませているのが地盤沈下に伴う浸水で、ちょうど満潮の時間を迎えた街では、地面から水が湧き出してきていた。道路こそ、かさ上げされて通行できるようになっていたが、建物の解体後は全体のかさ上げという課題が待っているだろう。

 市街地が被災した分、仮設商店街の規模も大きく、南町紫市場は二階建のプレハブ建物が、イロハニホヘトと7棟にも渡って展開していた。海辺には復興屋台村もあり、いい雰囲気で飲食店が軒を連ねている。大晦日とあって、開いている店も人影もまばらだったが、いつもは賑わっていそうだ。集積した商店は、コンパクトシティへの試金石といえるかもしれない。

 夕方五時を前に陽も落ち、街は暗くなってきた。被災前は、まだ店の明りで明るかったのかもしれない。人の気配のない建物の前から、ミヤコーバスの御崎行に乗車。通常の土休日ダイヤであれば、このあとにもう一本のバスがあるのだが、大晦日ダイヤで早くも終バスである。鹿折から唐桑半島へ、約四十分。明りも次第に減っていき、真っ暗な蝦夷狩バス停に到着した。

 暗い中に商店が二軒開いていたのは奇跡のようで、夜の酒を買い出して向かったのは、リアス唐桑ユースホステル(YH)。年越しで特別料金だったが、東日本&北海道パスで会員並みの割引がきいて、一泊二食で4650円だった。YHといえば男女別相部屋が基本だが、個室があてがわれた。畳の部屋がおっちゃんには嬉しく、風呂に入って、街で冷えた体をほぐした。

  津波の被害はここ唐桑でも大きく、震災後数ヶ月はYHが避難所になっていたとのこと。談話室には、あえて震災直後の掲示物が残されていた。震災四日後の三月十五日には、A4版一枚ながら市役所からの広報が出ており、金融機関や市役所業務の情報が提供されていた。仙台行き高速バスの運行も三月十八日には再開されており、混乱の中でも必死の努力が続いていたことを伝えてくれた。

 夕食は、カニやムール貝も付く豪華版。差し入れられたという、東松島の日本酒もことのほかうまい。いける口のホステラーだらけで、僕らの買っていた気仙沼の地酒も加えて、たいそう飲んだ。禁酒のユースだったら残念だなと思っていたが、杞憂だった。

 今夜のホステラーは、復興支援で長期で勤務されている方やボランティアに通っている方など、やはり復興に係わりがあってこの地を訪れた人ばかりだった。ひときわ若い少年は、埼玉県の高校一年生。お年玉を前借りしてきたというところに、年齢を感じるし、僕にも経験がある。昨夜の夜行バスで埼玉を発ち、仙台から列車とBRTを乗り継ぎ、志津川の仮設理髪店でで髪を切ってきたとのこと。旅慣れた行動と映ったが、本格的な遠出は初めてなんだとか。

 彼の、一番大きな持ち物は、ギターだった。昔のユースはこんなお客さんばっかだったねと、ペアレントさんが笑う。周りの世代に合わせて、ビートルズや津軽海峡冬景色を聞かせてくれていたのだが、オリジナルもできるというのでリクエストした。山形のお土産でもらった「赤べこ」や、日常の些細な出来事を綴った歌は、好きな切り口だった。いいね。

 なんでも小学五年生の時にギターを手にし、高校生になってからはライブハウスでも弾き語っているとのこと。将来はプロを目指す、若きシンガーソングライターなのだった。表には出さないが、二年前に震災のニュースに触れた時も、感情に渦巻くものは多かったのだろう。実際に目にした被災地は、彼の目にどう映ったのだろうか。歌を通して、聞いてみたいと思った。

 部屋に荷物整理に行ったらいつしかウトウトしており、ザキに起こされれば、テレビではゆく年くる年が始まっていた。名古屋人氏からは、九州人なのに弱いなあとなじられるが、旅疲れからです、きっと。囲炉裏を前に、こたつに入り見るゆく年くる年は、これぞ日本の年越しである。例によって、突然の時報で年が明けた。一昨年の京都駅一〇番ホーム、昨年の平泉毛越寺に続き、今年も旅先で年越しを迎えることができて幸せだ。今年も、いい一年になりますように。

▲豪華版のYHの夕食


▲避難所だった頃に掲げられた応援メッセージ


▲震災当時の市広報も

▽4日目に続く
inserted by FC2 system