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2日目【12月30日】
福島と宮城の今

郡山→福島→南相馬→相馬→多賀城→石巻



避難指示解除準備区域を経由して

 今日も早起き、六時台の起床である。一階居酒屋の、朝食バイキングで一日が始まった。和洋のおかずからご当地の味・笹かまぼこまで並ぶバイキングは充実していて、派遣中も毎朝モリモリ食べて乗り切ることができた。激務の一週間にも関わらず太った主因は、この朝食ではないかと踏んでいる。

 今日は、夕方までザキと別行動。ザキは飯坂温泉、仙台、松島巡りと充実の行程を組んでおり、七時過ぎのバスで出掛けて行った。僕も福島までは同じ行程なのだが、郡山市役所周辺の様子を見たいので、ホテルで解散とした。

 ホテルから、歩いて三分の市役所へ。市役所本館は展望台が崩落し、市内唯一の犠牲者はここで亡くなっている。建物は立ち入り禁止となり、各部署は市内のあちこちの施設に離散。昨年末は、プレハブの仮庁舎がようやく完成という段階だった。本庁舎の耐震と改装の工事はほぼ完了、足場が外される途中というステップを迎えている。

 開成山公園内の「ミューカルがくと館」には災害対策本部が入っていたが、別庁舎に引き上げられ本来の姿に戻った。柱が破壊され、昨年七月の段階では手つかずの状態だった総合体育館も、大規模な復旧工事の真っ最中。駅前に目を移せば、ペデストリアンデッキもすべて復旧していた。市民生活の復旧を最優先にする中、後回しにされてきた公共施設の復旧工事が、一気に急ピッチで進んでいるようだ。

 一方ホテル横のボウリング場は、あの日のままの姿。ショッピングセンター横のアパートは、昨年末の段階でも「水道の復旧ができないため避難所への避難を推奨」という張り紙が出されていたが、結局復旧を断念したようで更地になっていた。

 郡山駅から、鈍行列車の旅を再開。郡山までは四十五分の道のりで、セミクロスシートの719系が来たのはありがたい。東北本線の仙台・福島エリアの普通電車は車両のバラエティに富んでおり、言い換えれば当たり、外れが大きい。ロングシートの701系が来てしまうと、おちおち駅弁も食べられなくなってしまう。


▲郡山市役所の復旧工事は完成間近


▲市民体育館も復旧工事中


▲磐越西線向けと並ぶ東北本線719系電車

▲比較的平穏に見えた川俣町中心部


▲草ぼうぼうのビニルハウスに胸痛める


▲無線LANも使える快適な福島交通バス

 郡山駅から、鈍行列車の旅を再開。福島までは四十五分の道のりで、セミクロスシートの719系が来たのはありがたい。東北本線の仙台・福島エリアの普通電車は車両のバラエティに富んでおり、言い換えれば当たり、外れが大きい。ロングシートの701系が来てしまうと、おちおち駅弁も食べられなくなってしまう。

 福島からは、福島交通のバスで南相馬を目指す。南相馬へは、上野から特急電車が直通していたのだが、原発事故と津波の被害で常磐線は分断状態にある。福島で新幹線と急行バスを乗り継ぐルートがスムーズで、一日四本のバスには帰省客らが長い列を作っていた。南相馬まで千二百円。原発避難区域を避けて、相馬方面へ大回りするのだろうと思っていたバスだが、実際には川俣町から飯館村へ、一部では避難区域を経由していき、計らずとも原発の被害を受けた地域の一端を垣間見ることになった。

 四列シートのバスに、補助席を使わず全員座ることができて、まずは安心。無線LAN対応のバスとかで、タブレット端末を持っている人には重宝しそうだ。福島市内を抜けたバスは、国道114号線の峠道を登り始めた。落葉樹の多い、ありふれた田舎の風景なのだが、立子山地区ではあちこちに「除染をしています」と書かれた工事看板が掲げられていて、目に見えない放射能の姿を間接的に感じた。

 約四十分で川俣町へ。ショッピングセンターやホームセンターは、年末の買い出しをする地元の人で賑わっていて、中心部での生活は表向き、平穏に営まれている印象を受けた。ただ壊れたままの民家や、個人商店の空き店舗はちらほらと見られる。営業所で五分休憩。

 川俣を出ると、避難区域内の学校を集めたプレハブの仮設校舎があり、避難者の多い現状を垣間見る。「この先は山道のため、荷棚の荷物に注意を」との放送に違わず、県道川俣原町線に入ると、急に道が険しくなった。飯館村の避難指示解除準備区域に入ると、家々から人の気配が薄らぐ。個人商店も全国チェーンの大型店も、扉を硬く閉ざし荒れ放題。田畑も荒れたままで、ビニールハウスの中も草ぼうぼうといった状況である。本来は実り豊かな土地であるだろうに、胸が痛む。

 南相馬市に入っても田畑が荒れており、農家の方々は居た堪れない気持ちだろう。そして立ち入りすら叶わず、地震の日から時間が止まってしまった町も、広範囲に渡って存在する。九州にいるとなかなか伝わってこなくなっているが、現に目の前にある現実だ。忘れてはいけないし、目をそらしてもいけない。


常磐線…少しずつ、日常へ

 南相馬市の原ノ町駅前にある、中央図書館前に到着。バスが早着して時間に余裕ができたので、駅前のラーメン屋に入って札幌ラーメンを頼んだ。ラーメン屋さんは、ほぼ満員の盛況。昨年末は、ようやくセブンイレブンが二四時間営業を再開したというタイミングで、街の活気が薄らいでいる感じだったのだが、少しずつ取り戻しているのかもしれない。

 それはいいのだけど、ラーメンは一杯一杯丁寧に作られているらしく、いつしか電車の時間まで十分を切った。聞いてみれば僕の分も作り始めたところだったらしいが、もう間に合わないだろうとキャンセルに。電車の時間も聞かずにと、えらく恐縮されてしまったが、こちらこそ最初に時間をお伝えするべきだった。後で聞いてみれば地元でも評判の店だったらしく、再訪して食べてみたい。

 原ノ町駅から相馬駅は、部分再開している常磐線で下る。原ノ町駅から南は原発災害と津波被害、相馬から北も甚大な津波被害で不通になっており、全国のJR線でも唯一、完全に孤立した状態で運行されている区間である。震災当時に停まっていた415系電車と「スーパーひたち」が取り残されており、スーパーひたちの白いボディは去年より、だいぶ汚れてしまった。

 部分運行では乗客も少なく、陸送されてきた短い2両編成の701系がピストン運行している。トイレは使えず、車内にも中吊り広告が一切なく、仮運行といった風情である。それでも駅に明りが点り、自動改札が動き、発車メロディが鳴るという日常を取り戻している意義は大きい。部分運行を始めるまでの経費は大きかっただろうし、ガラガラの車内を見ていると赤字運行なのは間違いないだろうが、それでも走らせられる区間を走らせる努力は、大いに評価されていい。昨年は、再開後間もないため徐行運行となっていたが、今回は幹線らしい高速運行になっていた。仮設の検修施設で運用されている割に、電車の窓も車内もピカピカなのも好印象だ。

 なまこ壁の、立派な相馬駅着。亘理駅までは一時間一〇分、代行バスに揺られる。東日本急行バスの最新鋭のバスで、乗り心地はすこぶる良い。乗客は昨年と同様、数人程度と少ないのは気になるところで、途中ですれ違った福島交通の仙台直通バスの方が賑わっていた。乗り換えがなく、新地〜仙台を一時間で結ぶ速達性も人気のようだ。この間、JRのバスと普通電車を乗り継ぐと、各停便で一時間四〇分かかる。

 平野奥深くまで津波が遡上した仙台平野の津波被害は甚大で、昨年末も、流された車がそのまま残っているような状態だった。今は片付いており、農地の復旧工事も進んでいる。ただ今でこそ広大に見える土地には、家々があり、駅があり、線路があった。想像力を必要とする状況になったが、そこに僕の故郷・佐賀平野と同じような平穏な暮らしがあったのだと思いめぐらせないと、見えてこないものもある。

 昨年は郡山市役所と同様、立ち入り禁止の措置が取られていた山元町役場も、「がんばろう!山元 Fujita」の力強いノボリを掲げて、復旧工事の真っ最中だった。来春の運行再開が決まっている浜吉田駅には、地元有志が作った「祝 浜吉田〜亘理来春再開」の垂れ幕が下がっていた。残る浜吉田〜相馬間も、代行バスの走る山側に移設して、三年後には再開することが決まっている。震災前の形とは違うけれど、少しずつ、以前の姿を取り戻している。

 亘理駅着。代行バスとの連携輸送も二年近くになり、案内、連携はスムーズだ。仙台までの電車は、最新鋭のE721系電車。ゆとりのあるクロスシートが快適である。三十分も乗れば、活気ある百万都市の仙台都市圏。高架からは大規模な仮設住宅の団地が見られ、この大都会もまた、被災地の一つであることを実感する。一日も早く、平穏な暮らしを取り戻せますように。


▲部分再開の常磐線は2両の短編成


▲汚れが目立ち始めた原ノ町駅のスーパーひたち


▲相馬〜亘理は代行バスがつなぐ


▲亘理駅の仮設ホームの活躍もあとわずか

痕跡の消えた多賀城市


▲現在は途中駅止まりのマンガッタンライナー


▲タイヤ館は復旧、GS跡はコンビニに



▲歩道は平滑に復旧、ユニクロ跡は空き地のまま


▲イオン多賀城から眺めた市街地

 地下ホームに降り、仙石線に乗り換え。石ノ森漫画が車内外いっぱいに描かれた、マンガッタンライナーだった。先頭車は、混雑時はロングシート、閑散時には九〇度回してクロスシートになる2WAYシート車。ただ今日は、左半分がロング、右半分はロングという変則状態で運用されていた。ドアはボタン式の半自動になっており、まごつく人が多く見られるのは、遠来の人が多い帰省シーズンならではである。

 地下区間での各駅は昨夏、昨冬と変わらず、節電が徹底されている。薄暗いを通り越し「暗い」といえるほどの照度しかなく、冬の節電も厳しく求められているのだろうか。

 多賀城駅で下車。この駅に降りるのは一年半ぶり、二度目のことだ。初めて降りたのは震災前で、震災後の様子が気になり、郡山派遣の唯一の休日に訪ねてみた。多賀城の被害は、久留米で例えるなら210号バイパスを津波が襲ったようなもので、全国どこでも見られるようなチェーン店が軒並み被災している様子に、衝撃を受けた。多賀城市内の犠牲者百八五人のうち、市外の方が九十三人と半分以上を占めており、たまたま通りかかって犠牲になった人の多さを物語っている。道路に立っても、そこが海から近いと感じさせるものは一切なく、特に市外の人が適切な避難行動を取るのは困難だっただろう。三陸沿岸の街とは少し様相の異なる、都市型津波災害の怖さを感じた。

 またあの時は、被災建物が取り壊されるでも、立ち入り禁止ロープを張られるわけでもなく、そのままの状態で放置されてることも衝撃だった。路上の車を撤去し、車の通行を確保するだけでもようやくという段階で、まだまだ復旧の途上にあった。その中には再起する店も見られ、「営業中」のノボリを掲げる店と、看板は掲げたまま廃墟となった店が隣り合っていた。

 あれから一年半、記憶の中にある道をなぞり歩いてみた。まず感じたのは、郡山と同様、空き地が増えたということ。取り壊されたまま、建物が再建されない空き地が多かった。しかしガソリンスタンドの跡はコンビニに、紳士服屋の跡が居酒屋にといった具合に、再建を断念した店舗跡地へ、次の店が入っている場所も多かった。消費が旺盛な仙台都市圏、投資の価値は失われていない街なのだろう。ファーストフード店やタイヤ店など、一年半前は破壊されたままだった店の中には、再起を果たしていたものもあった。

 津波に流された車の廃車体が積まれていた空き地は、中古車の仮置き場になり、出荷を待つ車がずらりと並んでいた。マンホールが飛び出し、ボコボコに破壊されていた歩道は、すっかり平滑に整備されていた。街にいた多くの人が避難し、難を逃れた大型ショッピングセンターも修復され、何事もなかったかのように営業していた。多賀城市は、復旧から復興へ、着実な路を歩んでいることが分かった。そう、何事もなかったかのように…。

 一年半前、破壊された建物を見ながら、津波に襲われるなんて想像にも及ばないような街が、確かに被災したんだと否応なく理解することができた。しかし今の多賀城はわずか一年半で、ロードサイド型店舗が並ぶ、典型的な郊外の街に戻った。もちろん地元の人は経験を元に逃げるのだろうが、もし同じ規模の津波が襲った時、市外の人は同じような悲劇に見舞われはしないのか不安だ。僕が歩いた範囲では、海抜や浸水域であることを示す標識が見当たらなかったが、車からは見えるように設置されているのだろうか。

 さて僕は、去年手に入れた安物の防寒靴を履いてきたのだが、少し雨水が侵入してきているのを感じていた。この先、青森から北海道まで、雪の多い地域が控えている。きちんとした冬向けの靴を手に入れようと、件のショッピングセンターの靴売り場へ。北国の靴事情なんて分からないので、売り場のお姉さんの丁寧な説明を受けながら、防水、スパイク付の靴を選んだ。これなら北海道でも大丈夫だろうし、九州で雪が降った時にも重宝しそうだ。ただ指先あたりが窮屈で、のちのち靴擦れに悩まされることになる。


一歩一歩、仙石線

 再び仙石線に乗る。塩釜市付近の車窓では、一階部分が被災した建物が多く見られたものだが、電車から見るとこちらもだいぶ建物が減った印象を受けた。昨年の夏も冬も、一階部分をふさぐ板に「津波のバカ!」と殴り書きされた建物が見え胸を痛めたのだが、今回は見つけることができなかった。

 松島海岸着。塩釜から松島へ、遊覧船の旅を楽しんだザキとも合流した。仙石線はこの先、高城町から陸前小野までが依然不通で、松島海岸〜矢本間を代行バスが結ぶ。幹線で利用者も多い路線であり、代行バスも二台体制となっている。仙石線の沿線も、激しい勢いで津波に襲われた地域であり、昨年バスに乗った時には、その爪痕の深さに唖然としたものだ。夕方五時とあってはすでに夜の帳も降り、車窓は定かではなかったけど、野蒜駅付近の爆撃を受けたようなコンビニはそのままだった。野蒜周辺は大規模な線路の付け替えが行われる予定で、復旧の目途は三年後だ。

 代行バスは矢本まで走るが、列車は二駅手前の陸前小野駅から運行再開している。陸前小野駅の駅前に余裕がないため、代行バスが乗り入れやすい矢本が乗り換え駅になっているようだ。代行バス停と駅の間は距離があるが、この時間バスから列車の乗り継ぎ時間には余裕があり、昨年は運行していなかった陸前小野〜矢本間にも乗ってみたかったので、代行バスを陸前小野で降りた。

 街道沿いのコンビニで肉まんを買い、小腹を満たして陸前小野駅へ。バスと列車の重複運行区間なので、列車の本数は通勤時間帯を中心に、一日四本に留まっている。駅周辺も津波浸水区域で、こぎれいな駅舎は再建されたものとのことだ。駅内に東松島市の案内所兼、売店兼、切符売り場の出張所があったのは意外だった。周辺の見どころを教えてもらい、再訪がかなえば是非、訪ねてみたいと思う。一日四本では商売にならないと嘆いていたが、来春には増発が予定されており、少しは好転することだろう。

 高城町までは電車が走る仙石線だが、電化設備が被災しているため、陸前小野〜石巻間はディーゼルカーで運行されている。四両編成のきれいな気動車で、電車にも見劣りがしない。部分運行の苦労は多いと察するが、それでも走らせる努力は素晴らしい。


▲仙石線代行バスは2台体制


▲再建された陸前小野駅


▲仙石線で暫定運行中のキハ110系気動車


▲どう見てもワンルームマンションのホテル


▲アーケード街には仮設商店街も



▲サザエと田酒で乾杯
 石巻駅着。駅舎では、石ノ森漫画のキャラクターが出迎えてくれた。垂れ幕、像からステンドグラスまで、ここまで徹底していればアッパレ。ザキのテンションも上がりっぱなしである。

 今日の宿は、駅から徒歩五分のコンビニホテル・エアーズロック石巻(ツイン一泊6980円)である。チェックインすると、一旦外に出て、もう一つの入口からエレベータに乗るようにとの案内が。戸惑いながらエレベータを上がると、思わず噴き出した。外廊下にはずらりとポスト付のドアが並び、ワンルームマンションそのものではないか。部屋のつくりもまるっきりマンションで、ご丁寧に家庭用の小型冷蔵庫まで備えている。ザキのマンションにでも遊びに来た気分だが、落ち着けることは間違いない。ユニットバスのお湯の勢いもマンションレベルに留まり、この点だけは不満だった。

 ランドリーに洗濯物をぶち込み、夜七時の石巻の街へ。アーケード街は、昨年より空き地が増えた印象を受ける。駅前デパートの撤退など、もともと空洞化が進みつつあったと聞く石巻の中心市街地だが、津波被害が加速させてしまったのだろうか。「マンガロード」として建てられた石ノ森漫画のキャラクター像は磨きこまれており、歩いて楽しい道なのは変わりがなかった。マンガロードの先にある石ノ森漫画館の再開は明るいニュースで、街の活気につながってくれればと思う。

 年末の三十日とあって、街の飲み屋は同窓会の若者で賑わっていたが、これぞという店が見つからず、結局ホテルに戻ってきた。「石巻で二番目に安い、二番目にうまい」という看板を出した、ホテル前の海鮮居酒屋の雰囲気が良かったので覗いてみれば、地元の方で満員の盛況。席が空いたら、電話してくれるということだ。じゃあマンションに戻りましょうと、真顔でザキが言った。

 二十分も経たぬうちに席が空いたとの連絡があり、刺身にサザエのつぼ焼き、焼き魚など海の幸を堪能。牛タンもあり、福島で電車を乗り間違えて仙台観光できなかったザキも、雪辱を果たすことができた。青森の田酒も置いてあり、青森に行ってからのお楽しみと考えていたのだが、フライングで飲んでしまった。ホテル代よりだいぶ飲み食いしてしまったが、石巻の元気に少しは貢献できただろう。


▽3日目に続く
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