▲現在は途中駅止まりのマンガッタンライナー
▲タイヤ館は復旧、GS跡はコンビニに
▲歩道は平滑に復旧、ユニクロ跡は空き地のまま
▲イオン多賀城から眺めた市街地
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地下ホームに降り、仙石線に乗り換え。石ノ森漫画が車内外いっぱいに描かれた、マンガッタンライナーだった。先頭車は、混雑時はロングシート、閑散時には九〇度回してクロスシートになる2WAYシート車。ただ今日は、左半分がロング、右半分はロングという変則状態で運用されていた。ドアはボタン式の半自動になっており、まごつく人が多く見られるのは、遠来の人が多い帰省シーズンならではである。
地下区間での各駅は昨夏、昨冬と変わらず、節電が徹底されている。薄暗いを通り越し「暗い」といえるほどの照度しかなく、冬の節電も厳しく求められているのだろうか。
多賀城駅で下車。この駅に降りるのは一年半ぶり、二度目のことだ。初めて降りたのは震災前で、震災後の様子が気になり、郡山派遣の唯一の休日に訪ねてみた。多賀城の被害は、久留米で例えるなら210号バイパスを津波が襲ったようなもので、全国どこでも見られるようなチェーン店が軒並み被災している様子に、衝撃を受けた。多賀城市内の犠牲者百八五人のうち、市外の方が九十三人と半分以上を占めており、たまたま通りかかって犠牲になった人の多さを物語っている。道路に立っても、そこが海から近いと感じさせるものは一切なく、特に市外の人が適切な避難行動を取るのは困難だっただろう。三陸沿岸の街とは少し様相の異なる、都市型津波災害の怖さを感じた。
またあの時は、被災建物が取り壊されるでも、立ち入り禁止ロープを張られるわけでもなく、そのままの状態で放置されてることも衝撃だった。路上の車を撤去し、車の通行を確保するだけでもようやくという段階で、まだまだ復旧の途上にあった。その中には再起する店も見られ、「営業中」のノボリを掲げる店と、看板は掲げたまま廃墟となった店が隣り合っていた。
あれから一年半、記憶の中にある道をなぞり歩いてみた。まず感じたのは、郡山と同様、空き地が増えたということ。取り壊されたまま、建物が再建されない空き地が多かった。しかしガソリンスタンドの跡はコンビニに、紳士服屋の跡が居酒屋にといった具合に、再建を断念した店舗跡地へ、次の店が入っている場所も多かった。消費が旺盛な仙台都市圏、投資の価値は失われていない街なのだろう。ファーストフード店やタイヤ店など、一年半前は破壊されたままだった店の中には、再起を果たしていたものもあった。
津波に流された車の廃車体が積まれていた空き地は、中古車の仮置き場になり、出荷を待つ車がずらりと並んでいた。マンホールが飛び出し、ボコボコに破壊されていた歩道は、すっかり平滑に整備されていた。街にいた多くの人が避難し、難を逃れた大型ショッピングセンターも修復され、何事もなかったかのように営業していた。多賀城市は、復旧から復興へ、着実な路を歩んでいることが分かった。そう、何事もなかったかのように…。
一年半前、破壊された建物を見ながら、津波に襲われるなんて想像にも及ばないような街が、確かに被災したんだと否応なく理解することができた。しかし今の多賀城はわずか一年半で、ロードサイド型店舗が並ぶ、典型的な郊外の街に戻った。もちろん地元の人は経験を元に逃げるのだろうが、もし同じ規模の津波が襲った時、市外の人は同じような悲劇に見舞われはしないのか不安だ。僕が歩いた範囲では、海抜や浸水域であることを示す標識が見当たらなかったが、車からは見えるように設置されているのだろうか。
さて僕は、去年手に入れた安物の防寒靴を履いてきたのだが、少し雨水が侵入してきているのを感じていた。この先、青森から北海道まで、雪の多い地域が控えている。きちんとした冬向けの靴を手に入れようと、件のショッピングセンターの靴売り場へ。北国の靴事情なんて分からないので、売り場のお姉さんの丁寧な説明を受けながら、防水、スパイク付の靴を選んだ。これなら北海道でも大丈夫だろうし、九州で雪が降った時にも重宝しそうだ。ただ指先あたりが窮屈で、のちのち靴擦れに悩まされることになる。
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