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さよなら九州を駆けた寝台列車
前編
ラストラン富士、さよなら寝台列車

前編/後編
 ■ 重要文化財の名駅舎から旅立つ

 午後九時、門司港駅に降り立った僕を、闇夜にライトアップされた駅舎が出迎えてくれた。一九八八年に重要文化財に指定された由緒ある駅舎で、昼とはまた違った趣に包まれている。

 僕がこの駅舎と初めて出会ったのは、夜行急行「かいもん」に乗るべく、同じように夜訪れた小学六年生の冬だった。幼いながらにも、その美しさに大きく心動かされたものだ。建築屋を生業にしている僕だけど、建築を志したきっかけは、あの時見た門司港駅舎だったように思う。

 周辺のレトロ建築群もライトアップされており、夜の散歩も楽しい街である。デートコースとしても最適だとは思うが、今夜の門司港駅前は、明らかに同業者…「鉄」好きと思しき人々が、三々五々時を過ごしていた。門司港始発、日豊本線経由・鹿児島中央行きの団体臨時列車「ありがとう富士」を待つ人々だ。そして僕も、駅前に設けられた受付所で切符を受け取り、入線の時を待つ一人である。

 国鉄の切符を模した乗車証は、九州を駆けた寝台列車のテールマークをあしらったネックストラップに収められて
いる。
 「はやぶさ」「富士」などだけではなく、急行「かいもん」「日南」も含まれているのは、我が意を得たりの思い。A個室で配られていたヘッドマークをデザインしたタオルも貰えた。また寝台に備えられた浴衣も、今夜は持ち帰り自由とのことである。

 門司港駅の改札口上の電光掲示板に「ブルトレ『富士』鹿児島中央」の文字が光った。貴重なシーンに、一斉にカメラが向けられる。何気なく案内されているが、今夜の団体臨時列車は、抽選に当たった人だけが乗れる特別運行である。

 二十一時十五分、しずしずと逆行で「富士」が入線してきた。客車を先頭にホームへ滑り込んでくる様子は、「かいもん」の再来である。思えば筑豊本線の五〇系客車を含め、門司港駅で当たり前に見られていたはずの推進運転も、貴重なシーンになってきた。

 古びたホームに据え付けられたブルーの車体は、疲れの色こそ隠せないものの、つややかで雰囲気は満点。九州内のたかだか数百キロ離れた鹿児島までしか行かない列車ではあるが、はるか遠き旅立ちを思わせる空気が漂っている。

 今回の特別運行を成功させるべく乗り込むクルーは、主催者のJR九州旅行の社員を含め、10人以上にもなる模様。車掌やサービス係は、鉄道記念館から借りてきたという国鉄時代の車掌長や食堂車クルーの装いで、年配の方には懐かしいことだろう。

 発車までの十五分はあまりに短く、様々な角度から写真に収めていたら、あっという間に発車時刻となっていた。ベルに急かされるように、今夜の根城の6号車に乗り込めば、ガクンという客車列車独特のショックとともに発車。大勢のギャラリーに見送られ、門司港駅を後にした。



▲ライトアップされた名駅舎からの旅立ち


▲懐かしい「西鹿児島」の行き先


▲クルーは国鉄時代の装い

 ■ 最後の花道、最期の孝行

 今夜の「富士」は、もちろん満席。僕のボックスは、昼の「さくら」(長崎~門司港間)にも乗ってきたという佐賀のおやじさんと、遠路はるばる埼玉、大阪からやってきたという筋金入りの鉄道ファンたちが同席である。ただ、僕も含むめいめいの手には缶ビールとつまみもしっかり携えられており、列車でくつろぐ時間も好きな、鉄道旅行派でもあるようだ。

 門司駅で早くも運転停車し、普通電車に道を譲る。定期運転の頃の寝台特急も、同じ特急でありながら昼行特急に追い抜かれたり、普通電車を追い抜かない平行ダイヤを組んだりしていて、およそ「特急」らしくなかったが、今日は団体列車とあって、より肩身が狭い。とはいえ急いでいる人なんて誰も乗っていないのだから、何ら苦情はないだろう。

 小倉駅にも停車したものの、停車時間はわずかで扉は開かないとのこと。それなのに乗り換えの案内が流れてきて一同目を合わせたのだが、内容は「長崎・佐世保行き寝台列車『ながさき号』…」と、古き時代の車内放送を再現したもので、雰囲気を盛り上げてくれた。

 一方、車内販売員からの放送は、いつもは特急の客室乗務員として乗務している人らしく、洗練「されすぎた」感も。元日食社員の指導を受けて完全再現してほしかったと言っては、贅沢だろうか。車内販売の内容も、沿線のお土産品に飲み物程度のもので、現役時代とはほど遠い。沿線のお土産詰め合わせを買うと、きっぷを模した記念乗車証を貰えるとかで楽しみだったが、二号車の個室車から回っている間に、売り切れたようだ。端の号車に当たった悲哀である。

 車内販売といえば、鉄道グッズショップ「ワンマイル」による特別販売も、一号車の寝台一区画を占拠して行われており、好評のため整理券を配布して順番に案内しているようである。今日使用した号車札もオークション方式で即売するとかで、商魂たくましさには恐れ入る。佐賀のおやじさんは、日頃グッズ類には手を出さないのだが、今日は特別だからということで、「さくら」も含め十万は投資してしまったとのことだ。

 そもそもこのツアーの参加料金も、朝食の弁当や帰路の新幹線を含めるとはいえ、二万九千円という高値である。ましてグッズ販売にまで精を出すとは、一体いくら稼ぐんだろうと斜めから構えてしまいそうになる。ただイベントのため車両を整備したり、十人以上の乗務員を乗せたりしていれば、かなりの経費がかかるだろうというのも、また思い至る事実。現役時代は、乗客減に悩み「お荷物」となりながらも、簡単に廃止に踏み切れず赤字を出し続けた列車でもある。せいぜい最後に一稼ぎするというのも、九州ブルトレに飾らせてやれる最後の花道かもしれない。

 


▲白い陶器の洗面台は1台が使用禁止に


▲無機質、実用性重視のデッキまわり


▲「華」を感じたものだったA個室の通路

 ■ 特別列車に集まる人々

 今夜の「富士」は高値のツアー列車であり、それもほとんど乗ることが目的のようなもののため、一体どんなマニアックな雰囲気になるのだろうと怖いもの見たさの心境でもあったのだが、思いの他、「普通の雰囲気」の列車である。「鹿児島るるぶ」を見ながら明日の予定を練っている夫婦もいたし、よく乗った寝台特急が懐かしくて乗ったというおばあちゃんや、家族連れの姿もあった。廃止半年前の、同じような目的で乗る人が増え始めていた頃の「富士」に近い。もっとも親子4人で乗れば、旅行代金だけで十万四千円にもなるのだから、相当に好きでなければ踏み出せない出費ではあるだろう。

 そして、もっと意外だったのは、十時頃にはカーテンを閉めて眠る人が多かったこと。停車時間に少し眠るくらいで徹夜する人が、ほとんどなのだろうと思っていた。車両そのものを味わうには昼行の「さくら」の方がよかっただろうし、「富士」に乗った人は「車内で眠る」ことも目的の一つなのかもしれない。

 他の列車ダイヤを縫って走る臨時列車だが、走っている間は他の列車の邪魔にならないよう、現役時代を彷彿とさせる全力疾走を見せてくれる。一号車に行けば、高らかにうなるED76電気機関車のモーター音も楽しめた。行橋や中津、別府に至っては、なんと通過だ。再現の車内放送も聴けなかったが、ソニックの停車駅さえ無関係に通過してしまうのも、イベント列車ならではの非日常な痛快さがある。大分駅では二時間の停車時間があるのだが、
 「別府で止まってくれれば、駅前温泉で一風呂浴びれるのに」
 と言う大阪氏の声に、みな同意。旅行らしい旅行も楽しみたい、鉄道旅行派なのだ。

 別府を通過して数分で、列車は別府湾沿いへと飛び出る。対岸には大分の夜景、そして振り返れば別府と国東半島の夜景が広がり、車窓名所の一つと思う。初めてこの夜景を見たのが、上りの急行「日南」に乗った時だった。深夜の時間だったが、眠れずに寝台車の補助椅子から眺めたことを思い出す。十八年前の追体験である。

 〇時二十分、大分駅着。二時間の停車時間があるが、一時まではドアが開き、車外に出ることができる。そして深夜にも関わらず、大勢のギャラリーが待ち受けていた。〇時過ぎとは思えない賑わいである。

 大分駅は高架化工事が進んでおり、豊肥本線・久大本線のホームが高架化された。すでに終列車は終わった時間だが通路は開いており、初めて真新しいホームを踏むことができた。各県庁所在地の駅が近代的な姿に生まれ変わる中で、取り残されてきた感のあった大分だが、数年後には大変貌を遂げるのだろう。

 駅ビルはまだ昔のままだが、駅内コンビニはam/pmの身売りに伴い、ファミリーマートに衣替えしていた。am/pmの頃は深夜休業だったように記憶しているが、ファミマ化で二十四時間営業になったのは嬉しい改善。博多から宮崎の夜行特急「ドリームにちりん」も大分では長時間停車するが、夜食調達が便利になった。僕も、不足気味の燃料補給をしておく。

 時間は一時近くになり、さすがに眼もトロンとしてきた。上段寝台にセルフでベッドメーキングして、カーテンを閉じれば自分の空間。見知らぬ人に「お休みなさい」の声を掛けるというのも、寝台列車ならではの妙味だなと思いつつ、瞼を閉じた。

 


▲閉じたカーテンの多いB寝台車


▲カメラマンで賑わう深夜の大分駅


▲手作りプレートで盛り上げる乗客も


▲「富士」に乗った「富士」の模型

 ■ 九州を駆けた寝台列車の思い出

 物心がついた頃から、僕は鉄道を追いかけていた。身近な普通電車や、スマートな昼行特急ももちろん興味の対象だったけれど、長大編成を連ねて遠き地を結ぶ寝台特急は、別格の存在感であり、憧れだった。

 一九八八年の国鉄の地域分割で、もっとも懸念されていたのが、長距離旅客に不便が生じるのではないかということ。だから逆に分割民営化失敗の烙印を押されまいと、乗客減に悩みながらも寝台特急は廃止を逃れていた。国鉄から引き継いだ九州ブルートレインは、一九九四年まですべて生きながらえていた。

 初めて乗った寝台車は、格安で九州内のグリーン車・B寝台車に乗り放題だった「九州グリーン豪遊券」で乗った、急行「かいもん」「日南」のB寝台である。一九九三年三月の廃止まで半年を切った時期ではあったが、年末とあって帰省客で賑わっており、短い島内夜行でも根強い需要があるんだと、感心したものである。また同席となった人との語らいも、思い出に残った。

 ずっと憧れだった九州ブルトレはというと、貧乏学生にとってはさすがに「高嶺の花」で、旅行で使うのはもっぱら青春18きっぷで乗れる夜行快速だった。しかし幸い、九州内の区間ではブルトレの末端区間に立席特急券(自由席特急券と同額の特急券)で乗れる通称「ヒルネ」と呼ばれる特例があったので、熊本や長崎に行く際には、好んで利用した。特に「はやぶさ」には、1両まるごとゆったりしたソファを配した「ロビーカー」がお気に入りで、「つばめ」よりも贅沢でゆとりある旅路だと思ったものである。

 大学三年生の旅では、貯金をはたいてようやく「はやぶさ」のB個室ソロで東京から九州へ下るという宿願を果たすことが出来た。しかし就職して、金銭的にも余裕ができた二〇〇五年頃には、ブルトレは減便される一方で、個室化・リニューアルの動きも止まり、全廃の方針は規定事実となっていた。

 乗って残そうという気持ちよりは、なくなる前に乗っておきたいという気持ちで、本州方面に旅行に行く時には、高いのを承知で寝台特急に乗った。いや、寝台特急に乗りたくて、目的地を本州方面に定めていたのかもしれない。車体はボロボロ、食堂車はおろか夜の車内販売もなく、通勤列車からはダイヤの邪魔者扱いをされるみすぼらしい姿ではあったけど、それでも昭和の列車の名残を存分に楽しませてくれた。今思えば、スマートな「のぞみ」や「ソニック」に並び走る姿は、奇跡のようなものだったと思う。

 二〇〇八年末、ついに最後まで残った九州ブルトレ「はやぶさ」「富士」の廃止が決定。すでに夏ごろから人気の出ていた両列車の切符は、ネットオークションで取引されるほどのプラチナチケットと化していく。

 お名残乗車やリバイバル運行に乗るのは、もともと僕の趣味ではない。車両としての天寿を全うし、あるいは乗客減という厳しい現実の前で消えていく列車を惜しむ気持ちはあるが、さよなら祭りで盛り上がる非日常の姿を、あまり見たいと思わないからだ。九州内でも、四八五系特急電車の国鉄色や急行型気動車のリバイバル運行が盛んに行われていたけれど、どれも食指が動かなかった。

 しかし、幼い頃から憧れてきた東京行き寝台特急だけは、別格だった。「はやぶさ・富士」の廃止1ヶ月前にもお名残乗車に出かけた。乗客は「ファン」と言える人だかりで、既に普段のブルトレの姿ではなかったけど、そんな姿でも見たかったし、乗りたかった。最終日には、近所のこ線橋から、汽笛を長く鳴らし駆けていった最後の姿を見届けている。

 廃止後、何度か行われた復活運行は乗らずにいたけれど、それもいよいよ最後という「ブルートレイン・ファイナル運行」の告知が出された時には、当たればいいなという気持ちで応募。何倍の倍率になったかは知らないけれど、運よく当選し、今夜、乗車の機会を得た。

 門司港~鹿児島中央というのは本来の「富士」の運行区間とはまったく異なるし、編成も末期に活躍した十四系寝台車からB個室「ソロ」を抜いたもので、不完全な姿ではある。「富士」の最後というよりは、九州各地と関西・関東を結んだ九州ブルトレ、そして夜行急行「かいもん」「日南」を含めた、寝台列車の最後に立ち会うため、今夜「富士」の人となった。

 


▲憩いの場だった「はやぶさ」ロビーカー(2002年)


▲2008年に消えた「なは・あかつき」(2007年)


▲昼行特急に道を譲る末期の「富士」(2009年)


▲多くの見送りを受ける「はやぶさ」最終列車(2009年)

 ■ 四十年の旅の終着点

  夜半、屋根を叩く雨音に目を覚ましたが、その他のことには気付かず、ぐっすりと眠って七時に目覚めた。家を出る時には少し風邪気味だったのだが、不思議と治る方向に向かっているようで、だいぶラクになっている。普通の人なら、体力を使う車中泊で悪化しそうなものだが、やはり好きなことをしていれば、治癒力も高まるのかなと思う。

 宮崎駅でも車外に出る時間はあったようだが、まったく気付かないままだった。下段ベッドに降りた時には、日豊本線を坦々と、着実に走っていた。

 志布志線や急行「えびの」の乗り換えの案内があった都城を前に、朝食の弁当が配られた。以前の復活運行では食堂車メニューを再現した弁当だったこともあるのだが、今回のものは、宮崎名物の特製弁当。鶏の炭火焼や飫肥天などを詰め込んだ、ボリューム満点の逸品だった。包み紙はパソコンのプリンタで出力したようなものではあったけど、富士のヘッドマークが飾られたもので、大切に記念に持ち帰った。

 沿線には朝の走行の様子を収めようと、大勢のカメラマンが繰り出していた。見通しのいい場所では、それこそ鈴なりの状況。平日というのに、皆さんお仕事はどうされたんですかと問うてみたいが、自分も休暇を貰ってきている身であり、人のことは言えない。

 峠を超え、霧島神宮駅を通過すれば、隼人駅。二十分の停車時間で、扉が開く最後の駅である。終点の鹿児島中央ではあまり時間がないらしく、記念写真はこちらでという意味も含めているようだ。門司港でも大分でも人が多すぎてきれいな写真を撮れなかったのだが、ここでようやく丸型のヘッドマークを収めることができた。国鉄時代に使われていた形のマークで、三角形型のマークに親しんできた僕にとっては、新鮮。悪くないデザインと思う。

 ふと方向幕を見ると、二つだけ「あさかぜ・広島」となっており、ファンサービスかなと思ったのだが、見つけるやいなや戻されているのを見ると、いたずら被害だったのかもしれない。戻す過程では、「はやぶさ・長崎」や「あかつき・大阪」などの貴重なコマも見られ、恰好の被写体となっていた。

 停車時間の間には、四八五系の特急「きりしま」が先行していった。きりしま号も、来春の九州新幹線全線開業に伴い、リレーつばめの七八七系が移籍してくることが内定しており、最後の活躍といえる状況である。姿こそ、特急ハウステンボスの名残であるブロックパターンだが、国鉄時代の昼夜の主役の出会いにシャッターを向ける人も多かった。

 鹿児島の通勤圏に入り、単線ながら列車本数の多い区間だけあって、駅ごとの停車時間は更に長くなってきた。雨足も強まってきている。最後の力走を続ける富士との別れを、惜しむかのように。

 錦江湾沿いに出たものの、楽しみにしていた桜島は雨煙の向こう側である。それでも、国道の街路樹として並ぶヤシを見ていると、はるばる南国までやってきた到達感もひとしお。門司港からでもそう感じるのだから、東京から西鹿児島まで二十四時間以上かけて結んだ「富士」の車窓に見る錦江湾は、さぞかしの眺めだったのだろう。一度でいいから乗ってみたかった。

 鹿児島駅を出発すれば、鹿児島中央駅まであと一駅。いや、今日は車両の方向幕と車内放送に敬意を表し、西鹿児島駅と呼びたい。二十一世紀のスター・新幹線の線路が覆う西鹿児島駅のホームは、二十世紀の主役の登場を待つギャラリーで溢れていた。十三時間の、長くも短い旅は終わり、急かされホームに降り立てば、あっという間に車庫へと回送されていってしまった。今夜の折り返し「富士」で門司港に上れば、とうとう九州の夜から青い列車が消え去ることになる。

 イベント盛り沢山で過ごした、十四系客車での十三時間。それは「富士」ではなかったし、「かいもん」でも「日南」でもない、ブルートレインの車両を使った楽しいイベント列車だった。最後のお別れは、そんな楽しいものでいいのかもしれない。

 


▲朝食に配られたオリジナル弁当


▲丸型ヘッドマークが美しい機関車ED76


▲桜島は雨空の向こうに


▲長旅、お疲れ様でした…。

 ■ 未来への旅立ち

 ブルートレインは廃止になり、新幹線も開業するとあって、長距離列車の浪漫からはどんどん遠ざかっていく九州の鉄道。しかし、予想だにしなかった豪華列車の構想が、JR九州内で検討されつつあるという。

 その名も、九州一周観光列車。車両デザインを行うのは、数々のJR九州の列車を手がけてきた水戸岡鋭治氏で、以前から寝台列車を作りたいとも言っていた方である。経営的には成り立ちにくい列車だけに、デザイナーとしての夢物語かと思っていたが、今年初頭のテレビ番組ではJR九州の唐池社長も構想中である旨名言しており、イメージ図もすでに出来上がっているとのことである。

 ブルートレインとは違い、九州各地の観光地を巡るクルーズトレインのようなものになるらしいけれど、それでも鉄路のロマンを感じさせる構想だけに、期待が高まる。残念ながら、スピード時代の中で活躍舞台を失いつつある夜行列車だけど、新たな使命を与えられ、今の時代にマッチした列車として活躍してくれれば、嬉しい列車ではないか。

 九州新幹線の全通時には間に合わないとのことだが、数年後の実現は目指しているとのこと。ぜひ、二十一世紀の夜行列車に乗りたいものである。。

 
▼後編に続く
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